往復書簡10

あと10日でオープンですね。今村さんの方の進み具合はいかがですか。ぼくの方は、51枚目の下描きを仕上げました。あとは、アトリエの優秀なスタッフ2人ががんばってくれます。

仕事の分担としては、亀井さんがぼくが言葉で書いた色点字の一覧表を読みとって、アクリル絵の具で色づけとボンドでの盛り上げをやってくれてます。「あ」・「か」・「ま」・「や」などの微妙な色の違いを再現してくれます。

高内さんはひたすら釘打ちです。本来木に打ち込むものではない待ち針をまっすぐ打つのはかなり大変だそうです。でもこの弾力性のある待ち針が堅い釘と並ぶという触覚的なコントラストはどうしても使いたい一手なのでいつも無理をお願いしています。丸頭の釘をまっすぐ打つのもなかなか技術がいるのだとか……

さて、「夜はやっぱり空気が重いように感じる」という話ですが、改めてほんとうにそう感じているのだろうかと考えてしまいました。今村さんは、曇り空の時はどうですか? ぼくは重苦しく感じます。一方、雨が降りだすとスッキリした気分になってきます。雨が降りだす前が一番苦しいような重さです。

このような感覚は、見えていたときの見え方に関係あるでしょうか。完全に見えなくなるまでの最後の方は、わずかな光だけが見えていたのですが、それが見えているような、見えていないような自分でもわからなくなった時期がありました。懐中電灯で光を確認しても見えているようにも思うけど実際にはスイッチが切れていても見えているような気がするということがありました。

で、完全に見えなくなってからも、何となく集中すると見えてくるということがあったりするのです。見えていたときの記憶が蘇ってきて、机の色が見えているような気になるとかそんな感じですね。それはいまでも少しあって、勝手に部屋の中の色を想像していることもあったり、コーヒーカップの色を説明してもらうとその色が見えてくるような時もあります。頭のなかで風景や物事をイメージするような訓練ができていたのかもしれません。

なぜこんなことを書くかというと、失明していく時期に獲得した色点字以外にもう1つ獲得したように思える感覚があるからです。それは対物知覚です。ところがこの対物知覚と呼んできた言い方はいまでは使われなくなったようで、反響定位(エコーロケーション)と呼ばれていることを知りました。舌打ちで音を出したり、白杖で地面をたたいたりして、その反響音でまわりの様子がわかるという、こうもりやイルカのようなものですね。

しかしぼくは、音を意識的に出さずに、たぶん足音や、そのものが出している音の響きからものがあることを感じているように思います。

子どものころですが、祖父母のいた大徳寺の家からの帰り道、特に夜に車が止まっているとその1mぐらい手前で何か黒いものがあると感じていました。黒いというよりは、重い空気感のような気もします。止まっている車の横を通りすぎるとその車の終わりが感じられるのです。なぜかこのような感覚は、夜の道ですごく敏感になっていたように思います。「夜になるとよく目が見える」などと言っていたのを思い出しました。

ところが年とともにこのような「エコーロケーション」の感覚は落ちてきています。たぶん聴力の低下が原因かと思います。特に15000Hzあたりから上の音が聞こえなくなってきていることと関係があるのではと思っています。

何か話が脱線してしまいました。関係があると思って書きすすめたのですが、まとまらなくなってきました。ぼくの視力では、夜は暗いというイメージしかなくて、特に当時はいまより暗い街だったと思います。夜空の星や月が見えるほどの視力でもありませんでしたので、夜は黒い→重い。色のイメージから連想したことかもしれません。

前にも書いたように響きの少ない空間が好きです。なのでアトリエのギャラリースペースは少し反響が大きくて、さらにエアコンの音もうるさいと暗いなぁという感じがします。この前、演劇で使ってもらった時に、暗幕を貼っておられると音が吸収されて、とても明るい抜けのいい空間になっていました。とっても明るいと感じました。今村さんには、音と色との結びつきなどあったりしますか。

ところでこの間お誘いしたヴァンジ彫刻庭園美術館は、大徳寺の石庭に誘ってもらったお返しのつもりでしたが、旅費もずいぶん掛かってしまいました。それなりに楽しんでもらえていたらよかったです。今村さんが彫刻を通りすぎてしまっていたというのにはちょっとビックリです。彫刻科出身でしたよね。始めからインスタレーションを目指していたんですか。

今回は、野外彫刻を自撮りするというぼくの作品の編集をお願いすることにもなりました。よろしくお願いします。次回の更新は、展覧会オープン後になるかもしれませんが、ぜひ点字のタイプライターについて書きたいと思っています。

光島貴之