往復書簡7

お返事が遅くなってしまいました。年が明けたと思ったら、あっという間に一月も後半ですね。

友部正人、あまり詳しくないのですが、学生の頃にたまにパラパラと読んでいた現代詩手帳で谷川俊太郎と対談していて、なんだかかっこい人だなと思ったのは覚えています。今度、ちゃんと聞いてみます。
モモ、ゲド戦記、指輪物語、光島さんがそういった児童文学を今も愛読されているのは意外でした。僕は指輪物語は読んでないのですが、モモやゲド戦記は何度も読んでいて、特にモモを書いたミヒャエル・エンデの「はてしない物語」からはとても影響を受けていています。作品を考える時に、フィクションと現実の揺らぎとか、作品と作品でないもの境界とかを意識するのですが、そういうのに興味を持ったきっかけの一つだと思っています。

さて、光島さんは僕の作品の中で抱いた感情と、尾崎放哉の句、大徳寺の石庭に行ったことの3つを挙げてつなががりがあるのではとおっしゃっていましたが、共通点としては、いかにミニマルな要素で最大限に心に働きかけるか、というところかなと思います。俳句は、要素を削ることで読み手の想像力を喚起し、イメージに広がりを持たせますが、僕の作品や石庭にも同じような部分があると思います。

大徳寺の庭を見に行きましょうと提案したのは、単純にアトリエみつしまのすぐそばにあるということと、石庭を眺めるという行為の中には視覚以外のものがいろいろ含まれている気がしていたからでした。以前、神社の境内で手を合わす時に視覚以外の感覚が開くような瞬間があるといったことを話したと思うのですが、庭を眺める時も、目を開けながらそれにも近い感覚があるような気がしていたのでした。そして、それが自分の作品にも関係しているという感覚がありました。単純に聴覚や肌で感じる空気の感覚に敏感になるだけでなく、鋭敏になった感覚からの情報が心の深い場所に作用するといった状況があるのだろうと思います。

ただし、いざ実際に光島さんと行ってみると音環境や空間の抜ける感覚は他と違う面を感じられた一方で、そうは言ってもやっぱり視覚的な部分も多いのか、とも思いました。同行してくれていたアトリエみつしまスタッフの高内さんの力も借りながら、対話鑑賞のように口で説明していましたが、僕の語彙力ではどんな風に伝わっていたかは正直なところ不安ではあります。理想を言えば、庭の中を歩き回れたり、あるいは触れる立体模型などで、庭の石や苔の配置を把握してもらった上で眺めてもらえることができれば良かったのにと思いました。

ところで、尾崎放哉の句、後ろの2つは知りませんでしたが、とても良いですね。刹那的な感じと取るに足らないどこにでもある感じの両方あって、自分の興味的にもとても惹かれます。

1月の「手でみる彫刻コンペティション」ではご協力ありがとうございました。企画者としては、会が盛り上がるかどうかでけっこう不安だったのですが、もう一人の企画者の高野いくのさんがうまく進行してくれたこともあって、なかなかに面白くなりましたね。光島さんがいうように審査会にしたのは真剣になるという点で良かったように思います。見えない人も見える人も誰もが対等に意見を交わすというか、どちらかというと見えない人が経験値的に上の立場で議論できていて、良い場になっていた思います。今回は作品を作ってきた人も触っての審査にも参加してもらっていて、僕も自分の作品を出した上で他の人の作品を触って鑑賞していましたが、触る立場としてはその後の議論も含めてとても面白かったですが、作る立場で言えば、いろいろ反省点が多かったので次回はもっと良いものを作りたいと思っています。光島さんも次回は出品者としてもぜひ参加を。高野さんとは年1回で続けようかと話していました。

前回の僕の返事で、触覚に対するつっこみどころが満載だったとのこと…、そうなんですか笑。これまでの興味を考えてみると、触覚は一番わかってない気がします。
また、その後に聞いた光島さんのラジオに収録されている「まなざす身体」展のクロージングトークでの、触覚とイメージに関する話が、頭にハテナが浮かんだままでしたが、とても面白かったです。あの話は他の参加者もよく分からないままだったのではないかと思いますので、もう少し補足がぜひあれば教えてください。

今村遼佑