往復書簡5

新年明けましておめでとうございます。

僕が最初に往復書簡でなくブログがいいと言っていたので、光島さんは「往復書簡のようなブログ」と呼んでくれていますが、実際もう往復書簡的なので、往復書簡と呼んでしまいます。

さて、前々回の返信の方で光島さんが挙げられた子どもの頃の記憶はどれも共感できて興味深かったです。ただ、考えてみるとその共感の仕方がそれぞれ違うようです。

・朝、物置になっていた子供部屋の畳に日が差して部分的に明るくなっていたこと、埃と畳のにおい。
・盲学校高等部での窓際の席からの音の風景や雨の匂い。
・柱時計が音のしない時計になっていたことと両親への不信。

一つ目は光島さんが少し見えていた時の記憶なので、その光景がそのままイメージできます。
二つ目は視覚情報の有無という違いがあるのですが、その差を超えて、僕も光島さんも当時の少年二人はほぼ同じ体験をしているようにも思えます。
三つ目は、事柄は見えない人特有ですが、些細なことでも親に反発してしまうというその世代に共通の感覚で、僕も別のエピソードに置き換えて共感しているようです。

特に二つ目の共感のあり方が気になります。僕がアトリエみつしまでの「それはまなざしか」展で出した、壁をいろいろなものが叩いて音を立てるインスタレーションを光島さんが気に入ってくれたこととも関係する気がします。光島さんがあの作品で、初めて大広間のだだっ広さが分かった、と言ってくれた時に、何か作品の重要なところがストレートに伝わっている気がしてとても嬉しかったのですが、あの作品は視覚的な要素もあるのですが、その要素を除いたとしても本質的なものが伝わるということはあるのだと気づいたのでした。

ぼくの場合環境/世界を感じるときには、まず一番に触覚を使っていると思います。(中略)距離をとることは、景色/世界を失うことでもあります。

これはハッとします。
もちろん、光島さんもこれは極端なこと、と書いているようにそれだけで世界を失うわけではないのでしょうが、接触できる物事と、触れられない物事はそれだけ違うレベルで存在しているのだろうと思います。
あと、ここで触れる世界を「景色」と書いているのが面白いと思いました。音と景色(というか風景という語の方が適当かもしれせんが)にはサウンドスケープという言葉があり、いろんな研究もありますが、触覚の風景についてはあまり聞きません。触れられる範囲だとどうしても距離が限られてしまうからでしょうか。あるいは、触っている部分部分の積み重ねでしか全体を把握できないからでしょうか。
光島さんは触れることと景色との言葉の結びつきからどんなことをイメージされるでしょうか?

前回の最後に書かれていた、

このあたり今村さんの美意識における特異性などあれば教えてほしいです。

について。

「このあたり」に当てはまるかわかりませんが、「遠くのこと」というのは美意識というか、ある種の惹かれる要素としてずっと持っています。大きな要素ではなく、小さな要素を用いたりするのは、それもあると思います。遠くのものは小さく見えます。音も同じです。僕の作品に対して、意識を集中させる、といった表現で表されることに、それもあるけど何か違うと違和感を感じるのですが、僕の本来の意図が見えていなかった細部を注視させることではなく、むしろ、点在する小さなものを通して見えていなかったより大きな全体を眺める、というところにあるからだろう思います。それは集中よりリラックスに近く、それこそ、窓際の席にすわるようなものだと思います。
小さなものを使うというのは、例えば、窓のすぐそばでカラスが鳴いたとすると意識の中でカラスの存在が際立ちますが、遠くで小鳥がさえずっていると、鳥が風景を伴って脳裏に浮かぶ感じがあります。眺めが良いという言い方がありますが、それは大抵遠くまで見渡せることを言います。そしてそういう場所はとても気持ち良い風が吹いていたりします。比喩的な観点でも、作品が世界に対する新しい見方を提示できていると、そんな空間の抜けの良い、風の吹く場所に立っているような感覚があって、そういう感覚を作品に持たせたいと思ったりもしています。

もう一点、光島さんのいう、指先の情報として感覚と手のひら感覚、というのは面白いと思いました。情報把握とそれを味わう感覚、とも言えるかもしれません。触覚による仕事量というか、仕事の質の種類の数が違うというのは確かにそうですね。書きながら思ったのですが、光島さんのいう「情報としての指先の感覚」と「手の平全体で感じる質感」とは、先に僕が遠くのことについての中で書いた「細部を注視すること」と「全体を眺めること」に置き換えられるかもしれません。昔、「ながめるとみつめるのあいだ」というタイトルの個展をしたことがあるのですが、眺めることと、細部を見つめることのどちらもが必要で、その感覚の間の往復運動の中で物事を考えたいという意図でした。
あと、手で味わう感覚に関しては1月8日に光島さん協力のもと、僕と高野さんの企画でやろうとしている触って判断する立体作品のコンペにもまさに関係していますね。
ただ、見える人、見えない人含め、触って鑑賞する際のその良し悪しの基準に、ある程度の普遍的なものが存在するのか、それとも人によってバラバラなものなのか、参考にするサンプルが少なすぎてわからないなあとも思っています。美術館にある彫刻も全て視覚的判断(もしくは美術史的判断)から選ばれた物であって、触覚的価値から選ばれているわけではないですし。そういったことも含めて実験的に開催できればと思っています。

これはやや余談ですが、光島さんのブログで、見えない人は物の認識のために触る必要があるが、見える人はわざわざさわって確認しませんよね、と指摘していて、その通りだと思ったのですが、最近気づいたのですが、僕の無意識の癖で、スーパーで買う商品を迷った時にちょっと触ってみるというのがありまして、重さとか硬さを確かめているとも言えるのですが、考えてみると、迷った最後は普段使わない触覚を使ってインスピレーションを得ようしているような気もしました。これは他の人も共感してくれるかもしれませんし、そうでもないかもしれません。ただ、やっぱり触れるというのは物の実体に触れるわけで、視覚とは違うレベルでの自分と物との交流が生まれるように思います。

庭の話にも触れたかったのですが、長くなりすぎるので今回はこの辺にします。

今村遼佑