ブログ第4回

今村さんが感じている美がどんなところにあるのかがよくわかりました。

日常において、光、音、味、匂い、皮膚感覚などの組み合わせの、その欠け方により対象との距離感は変化し、物ではなくてむしろその変化する距離の中にこそ美しさのようなものが生まれるのではないかと感じています。

この距離感の変化に注目するというのが、ぼくにはかなり苦手です。人との関係に置いてもその距離のとり方には自信がありません。それはまあいいとして、ぼくの場合環境/世界を感じるときには、まず一番に触覚を使っていると思います。点字を読む。さわってもののかたちや大きさを認識する。鍼をする時にも、脈診や、腹診。筋肉の硬さや、つぼの場所をさぐるのもすべて皮膚の接触において成り立っています。距離をとることは、景色/世界を失うことでもあります。

極端なことを書いてしまいましたが、ぼくにとっては距離の変化を感じ取れるのは、音です。音については、いろんな変化を受け入れることができそうです。

盲学校時代には、50m走というのがあって、ゴールで、金や太鼓が連打されていて、それに向かって2人が競争して走る。金を目指す人と太鼓を目指す人が同時に走ります。50m7.2秒というのが最高記録だったような。もう忘れてしまいましたが、短距離は比較的得意でした。

盲人野球では、ハンドボールぐらいの大きさのボールが土の上をバウンドしたりしながら転がってくる音を聞きながらキャッチします。卓球では、ピンポン球の中に散弾が3つ入っているのを転がします。その音を聴きながらラケットで打ちあいます。

そんな音ゲームのようなことばかりしていたことも影響してそうですが、音の定位についてはかなり敏感です。横断歩道には、点字ブロックでの誘導がほとんどありません。音響式信号機の「ピヨピヨ」を聞きながら向かい側まで歩くわけです。音響式信号機のない交差点では、止まっている車のエンジン音や、もう一方の車の流れている音などから、まっすぐ歩くための情報を得ています。

音楽などを聴くときにも、まず音の定位が気になります。音の広がりや、奥行きや、音の動きが気になるのです。実は、音楽そのものの美しさなどがわかっていないかもしれません。

これは、触覚について書いたブログでも取りあげたことですが、情報としての指先の感覚に注目するあまり、手の平全体で感じる質感などを軽視していることにもつながるのかもしれません。

このあたり今村さんの美意識における特異性などあれば教えてほしいです。

光島貴之