往復書簡9

雪の日に町を歩く話、とても面白かったです。
京都では今年初めての積雪でしたが、いつになってもその年の初めての雪は軽い感動を覚えます。ただ、今年はいつもと違って、実は横浜からの帰りの新幹線に乗っていたので、とにかくこれ以上ひどくならないでと祈るような気持ちでした。米原あたりから徐行運転だったのですが、途中しばらく停まったり、京都ついてからもバスが全然来なかったりで、帰れるかどうかハラハラしていました。

そらで歩く、とても詩的でおもしろい表現ですね。確かに積雪は世界を一変させますが、僕にとっては景色がいつもと違っているだけで、どこかへ向かう時に必要とする情報はほとんど失われないのですが(道の境目が分かりにくいとかはあります)、光島さんにとっては足元の情報が消えて全然違う世界になっているというのは、なんだか示唆に富んでいるというか、面白いなと思いました。その変化の状態と、「そらで歩く」という詩的なキーワードで、何か作品にもつながるのではないだろうかと思いました。(人のことなので気楽に言っていますが。)

世界の変わり方が、違うというのは面白い部分だと思います。晴眼者にとっては、昼と夜の差、あるいは部屋の電気をつける・消すは、積雪以上に大きい環境の変化なのですが、光島さんにはたいした変化ではない。と書いたのですが、光島さんの文章を読み直すと、正月の話の中で、「夜はやっぱり空気が重いように感じる」と書いてますね。僕にとっては、どちらかと言えば、夜は昼間よりも空気が澄んで軽くなるような気持ちになりますが、その違いも気になるところです。

僕のアトリエのある亀岡は霧で有名な町ですが、霧もそうですね。たまに早朝にアトリエに行った時にとても濃い霧に包まれる時があるのですが、視覚的には周りが白くかすんで幻想的な風景になるのですが、光島さんにとっては少し空気が違うぐらいでしょうか。そういった世界の変化の受容の違いというものが、見える人見えない人の間だけではなく、光島さんのいう正月の朝の感覚のように、育った文化や個人差によって、いろいろな人の間であるんだろうなと思います。

そういえば、庭の時に書いておられた、「縁側に日が差していて暖かいところとそうでないところがあったのも(中略)触覚や音のコントラストとして楽しめました」というのは、僕にとっては何か新しい感覚として感じました。日差しの当たっているところが暖かいのはよく知っているはずなのですが、その差を愛でるということはあるだろうかとか。経験的に言えば、夏に木陰に入った時の涼しさとか、春の縁側のあたたさとか、そういうものを心地よいと思っている状況というのはあるのですが、思い出そうとすると、どちらかというと視覚の光と影のイメージの方が強いので、その温度の感覚は奥に潜んでいるように思います。その潜んでいる部分だけを取り出されて提示されたようで、でもそう言えばその感覚はとても好きだったなと思ったりしました。

先日、光島さんと一緒に参加したヴァンジ彫刻庭園美術館の触って鑑賞するワークショップもとても面白かったです。見た彫刻を思い出そうとする時に、触感を伴って作品が思い出されるのは、ほとんどない経験でした。大理石のなめらかさや、ブロンズのひんやりとした感覚が形とともにふっと思い出されます。実をいえば、僕にとって彫刻は美術の中で一番分からないというか、美術館の常設展だと、わりと流し見してしまうことが多かったのですが、少し違う感覚を持てた気がします。

今村遼佑