往復書簡6

返信が遅くなってしまいましたが、今年もよろしくお願いします。

もう115日ですね。小正月です。昔はこの日が成人の日でもありましたね。餅好きの家族だったぼくの家では小豆粥にお餅も入れて食べていました。何だかこの往復書簡をしているとなぜか過去の記憶が蘇ってきます。

返信が遅れていた理由の一つは、この際に昔読んだ中原中也を読み返したり、今も聴き続けているフォークシンガーの友部正人の20枚ほどのアルバムを聴き直したりしながら作品に使うことばをあれでもないこれでもないと考えにふけっている間にさらに『モモ』や『ゲド戦記』、そして『指輪物語』などのファンタジーの世界にどんどん沈んで行ってしまいました。最終的には、中也に戻って来て制作も始めることができましたが。

さて、前回の今村さんのメールの中で

 二つ目は視覚情報の有無という違いがあるのですが、その差を超えて、僕も光島さんも当時の少年二人はほぼ同じ体験をしているようにも思えます。

このことに触れながら今村さんの作品、「どこかのこと」2021(モーター、Arduino、導線、拾ったもの、身の回りのもの)についてのぼくの共感についてのあり方に言及されていました。

その時の感想をもう一度ここに書きます。

普段2階の大広間は、ワークショップやシンポジウムなどでも使っていてぼくもその大きさを理解しているはずでした。しかし今村さんの作品から発せられるわずかな音がいろんな方向から聴こえてくることで改めて部屋の広がりや大きさを感じとることができました。壁に沿って部屋を歩いたり、畳の縁に沿って歩いてみても決して感じ取れない部屋の広がりを感じたのでした。

ここまではすでに書いてきた音の定位が気になるというぼくの感覚からくるものです。そしてこのことは今村さんにも伝えていましたね。

でも、実は、もう1つ伝えていなかった感想があります。それは、だんだんその静けさの中にいると淋しいようなノスタルジックな感じがしてきたのです。

どこか喪失感にもつながるかもしれません。そういう意味では中也の詩編にピッタリかとも思いましたがどちらかと言うと尾崎放哉ですね。

せきをしてもひとり

宵のくちなしの花を嗅いで君に見せる

庭石一つすゑられて夕暮が来る

(『尾崎放哉選句集』より)

ひょっとしたらこのような感覚が、今村さんとのこのプロジェクトの始まりに大徳寺の庭に行ったこととつながるのかもしれないなと思っています。このあたりもぜひ聞かせてください。

前回のメールには、触覚に関係するつっこみどころが満載だったのですが、またそれは次の機会に譲りたいと思います。

最後に18日に行われた「手でみる彫刻」コンペティション」についての感想です。見える人が触覚を意識して作った粘土作品を見えない人が審査員になって感想を話しあうというものでした。見える人も布をかぶせた作品を見ないでさわりました。

見る要素を排除してしゃべれると言うことでぼくも含めて何人かの見えない人も遠慮なく感想を話していたと思います。どうしても見た目にはどうなんだろうということを気にしていると見える人の発言に引っぱられてしまうように思いますので、今回の試みは、とても意味があったように思います。

ぼくが粘土で作品を作り始めたのは、西村陽平さんの「視覚を越える造形ワークショップ」に参加したのがきっかけでしたが、その場でも見える人はアイマスクをして作っていたりしました。出来上がった作品をお互いにさわって鑑賞するという時間も毎回設けられてはいたのですが、その当時は、「みんなおもしろいかたちを作っているなぁ」というぐらいの感想しかぼくはしゃべれませんでした。粘土を20kgぐらい使って大きなものを作ろうというのも目標だったりして、大きすぎてわかりにくいと言うこともありましたが、何かもう1つ意識付けが足りなかったように思います。

そういう意味で、今回はずいぶん盛り上がった感想会になっていたと思います。ぜひ続けましょう。

光島貴之