往復書簡8

ぼくがファンタジーを読むのは、作品に行きづまった時が多いですね。何かしらのヒントやひらめきをもらっています。

さて、大徳寺の石庭で感じたのは、音の抜け具合とか、外の世界から隔絶したシーンとした感じでした。縁側に日が差していて暖かいところとそうでないところがあったのも、背景に鳥が鳴いていたり、まちの騒音がわずかに聴こえているのも、触覚や音のコントラストとして楽しめました。

今村さんが提案してくれている、庭に降りるというのは、それはやってしまっていいのか、いつも迷うところです。シーンとした感じをぼくの足音で台無しにしてしまう危険性があります。庭の中に入ってしまってはダメなような気がするのです。回遊式の庭園なら問題ないと思いますが……。

一方、図式化してさわれるものがあると持ち帰って、くり返しさわることができるので、後でふり返るためには必要かなと思います。写真の代わりですね。

このテキストを書いていて思いだしましたが、学生時代にししおどしが気になって詩仙堂に行ってみました。ところがその音がラジオか何かで聞いていたのとは違っていてがっかりしたことがありました。竹筒が石に当たってコーンという音がしますが、その音が竹筒が割れているのではないかというような貧相な音だったのです。何か違うと思って苔寺に行ったら少しましな音を聴けました。録音された音がよすぎたのかなぁ。そういうことってありますよね。

ところで話は変わりますが、24日の夕方から降り始めた雪ですが、ちょうどぼくがアトリエから帰る時、5時頃にかなり強くなって来ていて、帽子をかぶり、いつもになく手袋もしていたので、引き返すことなく一気に鍼灸院までの道を1人で歩きました。たぶん歩き始めは、3cmぐらい積もっていたかと思いますが、10分ほど歩いている間に一気に5cmぐらいになっていたようです。踏みしめる度にキュッキュッと音がして気持ちよかったです。久しぶりでした。

最近使っている白杖はスライド式で路面を滑らせて行くのですが、雪の日に使うのは初めてで、雪をかき分けかき分けて進む感じでした。左右に動かすことは雪の重さにじゃまされて無理でしたので、ひたすら前へ前へとすすめていきました。

いつも目印にしている白線の盛りあがりや、道路際の傾きなどはまったく分かりません。かろうじて四つ角などを感じる程度の情報で歩きました。それでも歩き慣れている道だからか、一度道路沿いの壁にぶつかっただけで無事帰れました。

こういうのを「そらで歩いた」と子どもの頃に言ってたように思うのですが、思い違いでしょうか。「暗記している」というような意味で「そらで言う」などと使っていたと思います。まさに、この雪の帰り道は、「そらで歩いていた」という言い方がピッタリかと思うのです。なぜかというと地面の固さがなくて、少し浮遊感があり、まったく知らないところを歩んでいる感じでした。極端に言えば宇宙を歩いている感じです。ひたすらぼくの中にある位置情報だけで歩いていたわけです。

音的には、雪で周りの音が吸収されて響きがなくなっているので、無響室の中のようでもありました。同じまちを歩いているのに周りの音が変化してしまうととっても崇高な感じがします。それは、石庭を前にした感覚にも通じるところがあると思います。

今村さんが神社で手を合わせるときの感覚と言っているのを聞いて思いだしたのは、子どもの頃の正月のまちの音です。今ほど車が走っていなかったので、特に元旦の朝は静かでした。まちを歩く時の感覚が普段とは違っていたように思うのです。もちろんまちの風景は見えていなかったので音だけで感じていたまちです。

すがすがしい感覚というのでしょうか。お昼頃になるともうその感覚はなくなります。かと言って、真夜中にまちを歩くのとも違うのです。夜はやっぱり空気が重いように感じます。

ちょっと雪の話から脱線したようなことになりましたが、今日は雪のことを書きたかったのでした。

ぼくは、見えないがゆえにインプットできているおもしろい感覚がいろいろありそうなのですが、それを作品としてアウトプットしていくのが、まだまだへたくそです。今村さんとやりとりしていてつくづくそのことを感じています。

最後になりましたが、「手でみる彫刻コンペティション」については、ぼく自身も作者として参加したいという思いもあるのですが、審査員として好きなことを言っている立場のおもしろさもあるので、もうしばらくは審査員にしておいてください。

光島貴之