往復書簡みたいなブログ(第2回)

2023年2月にアトリエみつしまで開催する今村さんとの二人展「感覚の果て」に向けてお互いの感覚をすり合わせていこうということになり、第1回目として今村さんが展覧会のテキストとして使われたものを読ませていただきました。

ここでは、そのテキストについての感想などを書くことにします。
今村さんのテキストを読んでいるとぼくの過去のイメージが甦ってきます。10歳頃まで少しだけ見えていたときの記憶です。

アトリエの窓の左右そろっていないカーテンの隙間から、斜めに差し込む朝陽を横目に眺めつつ、がらんどうになった部屋と窓と木について考える。

この部分で思いだしたのは、近所の幼稚園に通っていた頃の記憶です。木造2階建ての家に住んでいたのですが、2階の子ども部屋が物置状態になっていました。その部屋は、南向きで通りに面していたので、朝、2階に上がると日が差し込んでいて、畳が部分的に明るくなっていたのを思いだしました。埃と畳のにおいが入りまじっていたことも思いだしました。

子どもの頃、学校では窓際の席が好きだった。
外にいるのではなく、外を眺めるという行為は、その目に見える遠い場所に憧れながら同時にその距離の遠さに安心しているようでもある。

このテキストで思いだしたのは、盲学校高等部の普通科に通学していたときのことです。木造校舎の階で10名足らずの教室でしたが、やっぱりぼくも窓際の後ろの席が好みでした。
窓を開けていると運動場の音が聞こえてきたり、雨が降りだす前のにおいが流れ込んでくるのも好きでした。そんなときは、何か遠くまで見えているような気がして、窓から見える音の風景を覗いているような感じがしていました。

巻き鍵を差し込んで回すと、がたがたと思いのほか大きな音を立ててゼンマイが軋んだ。徳島の山奥の祖父母の家にあったもう動かない柱時計のことを思い出した。

最初に書いた子ども部屋の記憶につながるのですが、柱時計の壊れたので遊んでいた時のことを思いだしました。
針を手で回していくとぼーん・ぼーんという音が聞こえるのですが、柱時計として設置されていたときの音とは違っていて、反響がなくて壊れたおもちゃのような音に、何かしらはずかしさを感じました。

中学になって引っ越した家にあった柱時計は、いつの間にか新しい電気仕掛けの時計に変わっていました。
それは、まったく音のしない時計でした。
柱時計の音で時間を察知している息子のことが何もわかっていないなぁ、という父母に対する不信感が高まっていた反抗期でした。

家の中で、家の中にいることについて考える。いつしか降り出した雨を聞く。屋根からの滴りが定期的なリズムであちらこちらをノックする。意識は外に伸びていく。
夜、電気を消すと、雨が部屋の中でも降り出したようだった。漏れだした雨の気配で、畳がじっとりと湿り気を帯び始める。

家の中にいて聞く雨の音はほんとうにおもしろいです。濡れはしないけどじっと雨の中にいるような気持ちになりますね。

ということで印象的なところを引用しながらぼくの経験を書いてみました。もちろん、ぼくには実感の持てないところもありましたが、今村さんが感じている感覚の中でぼくに迫ってくるものがあることは確かでした。

光島貴之