往復書簡21「触覚時間再考」
今村さんへ
今村さんは、コントラストの弱い色使いに気持ちよさを感じるんですね。ぼくからすると色がぼやけていてとてもあいまいな感じがして色彩的に弱いのではと思ってしまいます。見えていた頃は、パキッとした色でコントラストのあるものに美しさを感じていたような気がします。ただしぼくの今表現している共感覚による色点字は、いずれの色もぼやけていますね。視力が落ちていくときに獲得した見え方の反映だろうと思っているのですが、その色合いの柔らかさや淡い色合いがよいと言われたりするので少しとまどったりもしています。
さて、昨年11月の話になりますが、今村さんも一緒に渋谷の野外彫刻をさわりにというか、撮影に協力していただきましたよね。1日目は、東京都現代美術館でカロの彫刻というか、建築物に入りこむ経験をして、2日目は、渋谷の路上にあるパブリックな彫刻をさわりました。糺の森で撮影したのと同じように今回もiPhoneで自撮りしたわけですが、冬だからではありますが、金属や石は冷たいです。やっぱり木のぬくもりがいいですね。
また今回もそれらの生の映像を今村さんに編集してもらうわけですが、撮った映像の音を聞きなおしていたら一つ思いだしたことがあります。「触覚時間」という言いまわしです。ぼくが言いだしたのか、触覚連画をやっていたメンバーからの発言だったのかは定かではないのですが、話題になっていたことには間違いないです。「触覚には時間が掛かるよね」「特別な時間が経過しているように思う」などと話しあっていたことを思い出します。思いつきでけっこうノリで言っていたようにも思います(笑)
それで改めて考えてみたのですが、視覚的なものは、一瞬で一つの画像でも立体でも認識してしまいますよね。映像などのコマ送りは1秒間に24コマだと聞いた覚えがあります。1秒の20分の1秒で見てしまえるということでもありますよね。間違っていたら訂正してください。
ところが触覚で一つの平面でも彫刻でもさわり終わって全体を認識するのには、かなりの時間が必要です。この間さわっていた野外彫刻でも一つさわり終わるのに5分以上、8分ぐらいは掛かっていたように思います。カロの彫刻は、上がったり降りたり繰り返しうろうろして20分以上かけてもまだ全体の構造が頭に入っていません。迷路そのものでした。平行移動と上下動が組み合わさるのでなかなか大変でしたが、おもしろさは格別です。わかりにくいものほど興味をそそられる!!というのは、ぼくがひねくれているのかもしれませんが……。
渋谷での撮影を終えて京都に帰ってきて、いつだったか日曜の朝8時5分からやっているNHKラジオ第1の「音楽の泉」というクラシックの番組を聴いていたときにちょっとひらめきました。パク・キュヒのギター演奏を聴いていたときだったと思います。音楽も触覚時間と同じで演奏時間に応じた時間が掛かります。1曲の最初から最後まで聞かないと全体がわかりません。何度か聴いているうちにメロディーなどを覚えてくるとだんだんその曲を自分のものにした気になってきます。これは、彫刻を何度もさわって全体を認識していく時間と同じだなぁと思ったのです。
以前から音楽も時間の経過で成り立つ芸術だとは思っていたのですが、改めて実感しました。音感がそれほどいいわけでもないので、けっこう時間が掛かるのですが、それでも何度も聴いているうちに全体の楽曲の構造がわかってきて、記憶に残っていきます。もちろん気に入った楽曲であればということですが、そのあたりも彫刻の鑑賞と類似しています。歌の歌詞を記憶して歌えるようになるとその曲を自分のものにしたような気になりますよね。その感じです。
今村さんが前回書いていたように音楽ではなく、一瞬の音については、「生じた瞬間に消えていく、音という現象に惹かれるのも同じ理由かなと思います」というのもその通りなので、これは、一瞬の手ざわりに当てはめて考えられるのかなと思ったりしています。そよ風がほっぺたを通り過ぎて行くときや、一瞬触れた手の感触にドキッとしたり、そんな感じです。
ところでぼくにはよくわからないので質問ですが、一つのものをずっと凝視していると何か変化というか、見え方が変わってきたりするものですか。
光島貴之