往復書簡16

光島さんへ

往復書簡、止めてしまっていてすみません。

振り返ってみると、一応、去年の梅雨や夏に出だしだけ書いていたのがあるのですが、まる一年近く書けないまま過ごしてしまっていました。

前回の光島さんの体調の話はなかなかに深刻でしたが、こう言って良いかわかりませんが、とても面白かったのです。その後だいぶ時間が経って、最近は調子よさそうで一安心しています。

体調でいうと、僕はアトピー性皮膚炎があって、もう長年良くなったり悪くなったりを繰り返しているのですが、光島さんには気づかれていないかもしれませんね。よく体を掻いているので、それは気づかれているかもしれません。この春先に花粉と黄砂の影響か、ぐっと悪化したのですが、病院を変えたところ薬も変わって、それが良かったのか気分も関係するのか、かなり良くなって今のところは安定しています。

さて、今回は最近の光島さんとの活動を振り返りたいと思います。まずは2月初めの卓球ですね。アトリエみつしまのメンバーや友人を誘っての卓球体験会で、鉄球入りのピン球を使って音をたよりにプレーするサウンドテーブルテニス、正確には僕らがやったのはそれよりもルールのゆるいスルーネットピンポンでした。

全国大会の優勝者である米澤浩一さんがたまたま光島さんの古いお知り合いで、幸運にも今回の指導役を受けてくれました。短い時間でしたが、第一線の人に教えてもらえたのは、その競技をより理解できたように思います。

アイマスクをして音でボールの位置を把握する感覚、なんとなく想像していましたが、実際にやってみるとやっぱり難しい。使ったことのない筋肉を使っている感じがして、もどかしさと面白さが入り混じった気分でした。光島さんにとっては普段の感覚を使ってスポーツを楽しんでいる感じだと思うのですが、僕にとっては未知の感覚を使って、今まさにその感覚を発達させていっている感じがして、競技性と感覚の上でと二重に楽しめました。

そして、ボールを打ち返すのは難しいのは難しいのですが、意外とできるというのも発見でした。普段にはない運動なので、どこまでできるのか想像がつかなかったのですが、精度はともかくある程度迫ってくるボールの位置を把握できるというのが分かりました。米沢さんのアドバイスで、「音を聞いて位置を把握しようとしているのではダメだ」というのは面白くて、実際やっていると、その意味するところは理解できたように思います。見えていないのですが、見えているかのように卓上とボールを頭の中にイメージするようにして打ち返す、とした方が上手くいっていました。そのイメージ化の過程で聴覚を使ってはいるのですが、そこには意識を集中するのではなく、体を動かす情報源としては、想像上の視覚イメージに意識を集中して打ち返す(つまり僕にとっての普段の運動神経の使い方)、というような脳の使い方になっていたのかと思います。

普段も無意識の聴覚で実はかなり状況を把握しているのだと思うのですが、だからこそ、見えないからといって聴覚だけに集中しすぎるより、普段に近い聴覚の使い方をした方が情報を把握しやすいのかもしれません。

あと、米沢さんはすごかったです。卓球台の横、審判の位置に立って僕らを指導してくれましたが、目で見ている人よりも、インかアウトかとか、空振りとか状況の把握が早かったです。指導されているだけでも、達人技を見ているようで気持ちよかったです。

さて、最近の活動のもう一つは庭についてです。こちらも2月ですね。光島さんにお誘いしてもらって、京都の東山にある無鄰菴での視覚に障害のある方たち向けの苔庭づくりのワークショップに参加してきました。

室内で庭の説明を聞いた後、実際に案内されて庭を見学しました。まず面白かったのが、視点場と呼ばれる石とその前の飛石でしょうか。視点場は丸くて平べったい、人が一人二人立てるほどの大きさの石ですが、ちょうど庭を眺めるのに良い位置に設置されています。確かに、小川やなだらかに起伏する苔や草に覆われた地面、庭周辺の木立、遠方の東山の山並みがよく眺められる場所でしたが、それよりもなるほどと思ったのが、その手前でした。

庭の入り口から建物の脇を通って視点場までの飛石が、とても凸凹した不安定な作りで、あれ、飛石ってこんなに歩きにくいんだっけ、これは光島さん大変だろうな、と思っていたのですが、実はわざと意識を足元に集中せざるを得ない作りになっていて、視点場にきた時に初めて顔をあげるという狙いになっていました。展覧会でも入り口に壁を立てて一度視界を遮り、中に入ってから全体が見渡せるようにする構成がよくありますが、それと同じ効果で、かつ、それを地面の操作のみでやってしまうというのは洒落ていますね。

あとは、小川にわざと大小の段差(小さな滝)を設けて音を生み出し、その配置で音空間を設計しているという話も印象に残った点です。庭の真ん中あたりで、音の空間として広がりが面白いというポイントがあり、確かに全方向から水の音が聞こえる場所がありました。視点場との感覚の違いがよいです。

その後は、別館に移動しての苔と石の配置による卓上の苔庭づくりのワークショップでした。僕と光島さん、もう一組の方と一つ作りましたが、協働で石を配置していくというのは、どうなることかと思いましたが、けっこうスリリングで面白かったです。僕は見ながらでしたが、光島さんはどんな感覚だったのでしょうか。できた苔庭は、なかなか良い出来でした。

そういえば、卓球は英語ではテーブルテニスですが、テニスは日本語では漢字で庭の球と書きますね。つまり、テーブル上の庭球と言えます。庭のスポーツのさらに卓上版だったわけで、言葉の上でも二つの活動はつながっていたみたいです。

往復書簡15

今村さんはたぶん展覧会で忙しくされていると思うのでぼくの方の近況をさらに書くことにしました。

前回は、鎮痛剤の副反応に悩んでいるというようなところで終わっていたかと思います。その続きのようなテキストをぼくのブログで発表しています。

https://mitsushima-art.jimdofree.com/2023/08/22/点字キーホルダーを磨く/

今回はこのブログの続編という感じで書きました。相変わらず病気自慢の話が続くのでそういうのがイヤな方は読みとばして次回の今村さんからの返信をお読みください。

8月の10日ぐらいで頸の方は一段落した感じがあったのですが、次は泌尿器の方にトラブルが出てきました。尿閉です。おしっこが出なくなったのです。

以前から前立腺の肥大は医者からも指摘されていて頻尿に対する薬も服用していました。ところがどういう加減か、お盆のあたりからおしっこが出にくくなって16日には完全に止まってしまいました。泌尿器科に緊急で見てもらうことになり、そのままカテーテルを挿入して導尿することになったのですが、細い尿道に逆行して管を入れるのがなかなかつらくて、医者に、

「ちょっとつらいですが、がんばってください」と言われても腹式呼吸をしても、つらさのため、大きな声を出していました。たぶん痛みにはそうとう弱いのだろうと思います。

それから1ヶ月あまりカテーテルにつながれた生活を続けました。

その間、一度カテーテルを抜いてみたこともあったのですが、また逆戻りでした。何度もカテーテルを挿入するというのは、ぼくにとってはかなりつらい経験でした。

この管にずっとつながれたままなのだろうかという不安が頭を過ぎったこともありました。

しかし、9月20日に、水を200ccほどを膀胱に入れて、いったんそれを我慢してから自力で排泄するというテストに合格して、無事カテーテルを外すことができて、今は元通りの生活を送れるようになったというわけです。

ところが問題は、首の時と同じように薬の副反応です。痛みに過敏なのと同じ程度に薬に対しても過敏なのでしょう。

尿道の平滑筋をゆるめておしっこが出やすくする薬と前立腺を小さくする薬を飲んでいるのですが、どうも排尿を促進する薬の副反応でふらつきや頻脈、血圧上昇などの症状が出てきました。

10月1日の「まなざしの傍ら」でのトークイベントをドタキャンしたのは最悪でした。血圧が200にもなっていたので、まあ仕方なかったのですが、体調を整えて、この間の病気ネタも織り交ぜてお話もできると思っていたのですが、残念でなりません。

今は、薬を別のものに替えてもらって少し体も楽になり、蓄尿の能力も回復してきています。

いろいろ不安になっていた9月の始めに読んだ本で、「前立腺歌日記」 四元康祐というのがあります。著者は、ドイツ・ミュンヘン在住の詩人ですね。ドイツで前立腺がんの宣告を受け、手術、リハビリを語った闘病小説なのですが、所々に詩が挿入されています。自作のものもあるのですが、ご本人が学生時代に愛読していた中原中也の詩の一説もかなり頻繁に出てきます。

前立腺をキーワードにいろんな検索をして見つけた一冊だったのですが、読んでいるときには前立腺の切除術も覚悟していたのでがんの手術の場面は衝撃的でした。著者が感じていることはその通りだと思いつつ、病気に対する我慢強さと気持ちの切り替えの早さにはついていけないものを感じながら読んでいました。こんな手術を受けるときには、体への負担はあるだろうけど全身麻酔でなければ耐えられないよなぁと思ったりして読んでいました。このごろの手術は、局所麻酔だと患者さん自身がモニターで手術の様子を見ながら進められることも多いようですね。ぼくの場合はそんなもの見せられてもどうしようもないですよね。誰かに画面説明をしてもらうなんてこと可能なんでしょうか。そういうことも合理的配慮の内に組み込まれているのかどうか、一度聞いておく必要ありです。

全身麻酔は小学校の2年生後半に目の手術で何度も経験しています。たぶん今より身体へのダメージは強くて、麻酔が覚めるときには、むかつきで何度も嘔吐していたのを思い出します。それでもあの吸いこまれていくような意識喪失は、今から思えば心地よい快感だったかとも思ったりします。死を迎えるときの意識喪失が全身麻酔のようであればいいなぁとも思います。

それにしても、「前立腺歌日記」を読んでいると他の前立腺治療に関する本を読んでいるよりは、ずっと気持ちが楽になったのはなぜなのか今でも不思議な感じです。

たぶん、こういう治療がお勧めだとか、治療の仕方を解説されているより、本人の気持ちの移り変わりを追体験する方が癒やしという言葉は使いたくないですが、なぜか寄り添ってくれる感じがあったのかなぁと思っています。

今の心境はというと、前立腺を削り取る手術は、レーザーで行い、全身麻酔だと知って少し安心しています。がんの場合は術式が違うのでよくわかりませんが。

そして前立腺肥大の治療が10年前とはかなり変わってきていて、薬中心でかなりいけそうだと言うことです。

整形外科的な部分は、鍼の治療をしていても実際に患者さんに触れることも多くて、ぼく自身もある程度の知識があると思うのですが、泌尿器に関しては、ほとんど医学的な知識は2010年ぐらいのところで止まっていたように思います。

次回の通院でMRIを撮ります。その結果でがんの可能性が排除できるといいのですが。

最後に笑ってしまうような話をもう1つ。トークイベントが始まる直前ぐらいですが、何とブリッジにしていた前歯の4本分が抜けてしまいました。根っこがダメになっているということで、それらは入れ歯となります。なのでまだしばらくはマスクでごまかしておくことにします。それにしても悪いことが続きます。男の厄年っていくつだっただろうかと調べてみましたが、まったく関係ありませんでした。

老いとは、いろんな病気が全快しないうちに次の病が発病して蓄積していく状態だと思っています。

まさにその老いが始まったわけですね。

今一番怖れているのは尿閉ですが、その原因はハッキリわかっていません。

アルコール・一部の風邪薬・抗アレルギー薬・カフェインも影響するとか言われていますが、心当たりがありません。酒は止めています。珈琲は毎朝飲む習慣ですが、これは止められず。

酒を止めてしまうのはつらいです。酒に何を求めているのか。酔って人との関係が近くなる。全能感というか、多幸感を得たい。大勢の人と何となく過ごす場に定着できる。などなど、あまりどうでもいいようなことばかりなのですが、たぶんこのどうでもいいことが重要なのでしょう。そうでないとほんとうに孤独を愛する時間がますます増えていくように思います。

光島貴之

往復書簡14

展覧会も終わってしまい、今村さんにお会いすることも少なくなってしまったので、ずいぶん久しぶりな感じがしています。

会期中にお越しいただいた方から、「感覚の果ては、見つかりましたか? 果てまで行けましたか?」などの質問を受けて、「まだまだですね。どこかでもう少し続けて果てまで行ってみたいです」などと答えていたのを思い出しました。

さて、今村さんは人前に出ることが苦手だったんですね。トークの時に少し聞いていたようには思うのですが、そういうことだったんですね。誰もが照れ隠しのように言っているぐらいのことだと思っていました。でも、この苦手意識をくつがえす経験としてワルシャワでの体験が影響していたとは知りませんでした。

ここでぼくも海外での滞在経験を持ちだして何か書ければちょうどいいのですが、あいにく海外での長期滞在の経験がありません。サンフランシスコ、サンディエゴ、カンボジア、香港、ソウル、上海などと行ってはいるのですがいずれも1週間以内で、展覧会とワークショップだけをこなして帰って来るようなことでした。旅行に行ったようなものなので、他の国に長く滞在して自分の生まれ育ったところを捉え直すというような経験がありません。だから、

身近な当たり前のものが、当たり前でなくなると新鮮に見えてくる。究極に身近なものとして自分自身に対しても同様の感覚を覚えたのだと思います。

というような経験がないわけです。残念です。

ですが、あえてここで書けることとして、身近な当たり前のものを自分の身体だとすると、その身体で起こっている感覚の変容についてはいくつも経験してきました。10歳で失明したこと。40歳前半に脳梗塞で右半身まひを経験し、1カ月の入院と2か月ほどのリハビリで鍼が持てるようになったこと。2019年には、摘出したはずの右目の奥に偽腫瘍が発見され、ないはずの眼球の痛みを経験したこと。それらは、再生とか復活の体験となっています。

そして今、10日ほど前から鎮痛剤を3種類飲みながら身体の疼痛と同居する生活が始まってしまいました。鎮痛剤は、痛みを鈍らせるだけではなく、いろんな感覚に影響してきますね。ぼくが特に痛みに弱いということもあるのですが、平衡感覚にも作用して、酒を飲みすぎたときのようなふらふら感があります。実際ふらついていて周りの人からもだいじょうぶですかと言われてしまいます。酒を飲んだふらふら感を心地よいと思っているのではなく、同時に多幸感も味わっているから二日酔いもまあ許せるのだと気付きました(笑)

エコーロケーションの感覚も鈍っているので、まちを歩くのにも影響があります。

とりあえずは、鎮痛剤が効いている内に二人ぐらいの患者さんの鍼治療をしながら日常生活を送っています。ジワジワと効いてくる鎮痛剤。効き始めと終わりがはっきりしている鎮痛剤。意識が急激に落ちていくような鎮痛剤を味わいながら効果が定着し、自然治癒力があらわれるのを待っているところです。感覚を鈍らせてしまう鎮痛剤を飲みながら、敏感に変化を感じる感性を保っていくのは難しいことかもしれません。

光島貴之

往復書簡13

展覧会、無事に終わりました。その後、間隔を開けつつもこの往復書簡は続けようと言っておきながら、だいぶ間があいてしまってすみません。

光島さんの点字のタイプライター「パーキンス」にまつわる学生時代の話は少年・青年時代の光島さんがリアルに感じられて、とても面白かったです。読みながら僕も自分の学生時代の学園祭のことなど思い出していました。でも、学園闘争は時代を感じますね。さて、僕は何を書こうかなと考えあぐねていましたが、最近のことを書きます。ゴールデンウィークに横浜での展覧会に参加してきました。連休期間のみの会期の短い展覧会で、参加アーティストのうち半数ぐらいはパフォーマンスの作品という、僕がこれまで参加してきた展覧会とは少し趣の異なる企画で新鮮でした。

そういう展覧会だったこともあって、単なる作品の展示ではなく、村田峰紀くんという友人のパフォーマンスアーティストと一緒にパフォーマンスを行いました。村田くんは今回の展覧会の企画者の一人でもあります。きちんと作品としてパフォーマンスを行うのは初めてでした。ただし、パフォーマンスといっても、僕が行ったのは、ギャラリーのバックヤードにあったいろいろなもの(バケツや脚立や箱など)に小さなハンマーのような装置をつけてコツンコツンと定期的に叩いて音がなるようにしておいたものを、薄暗がりの中、お客さんのいる空間に配置していき、並び替えたり、音の周期を変えたりするといったもので、これまでのインスタレーションの延長のようなものでした。

もともと人前に出ることが苦手なので、以前は自分がそういうことをやってみたいと考えたこともありませんでしたが、これには2016年から一年間滞在したワルシャワでの体験が影響しています。

ワルシャワでは受け入れ先になってもらったミロスワフ・バウカというアーティストが教えている大学のゼミに生徒として週に一度参加させてもらっていたのですが、そこがプロジェクトやパフォーマンスを主とする実技のクラスで、そういった表現方法に触れる機会に恵まれました。テーマが与えられて1週間後に何か準備してきて作品やパフォーマンスでもなんでもいいからクラスの中で発表するといったちょっとした課題や、合宿のように地方都市にみんなで行って1週間ほど滞在し、その間にグループでプロジェクトを作るというイベントも数回ありました。自分の学生時代を考えてみると、彫刻専攻ということもあり、自分で決めたテーマに数ヶ月向き合い、半年に一度、合評の機会があるというような作り方でしたので(それはそれで、個人の思考を深めていくには良かったのですが)、それに比べると即興性や瞬発力に重きがおかれていて、その軽やかさには驚くものがありました。

また、ワルシャワのあるアートセンターが企画した数ヶ月にわたるワークショップにも参加させてもらっていたのですが、その中でもパフォーマンスのワークショップがいくつかありました。その中で特に印象に残っていることがあります。自分を含め7名ほどの若手アーティストがワークショップに参加していたのですが、ワークショップ終盤それぞれの考えたプロジェクト案を美術館の一室に展示し、その場で一般のお客さんにプレゼンするという機会がありました。僕は草花の匂いをテーマにしたプロジェクト案を発表予定でしたが、自分の順番の前、他の参加アーティストが発表中に、植物のエッセンシャルオイルを染み込ませた付箋を観客の服や鞄にそっと貼っていくというパフォーマンスを行いました。

本来なら、そんな不審者と思われるようなことは恥ずかしくて躊躇してしまう性格です。でも、外国人という立場であったことで、「あ、全然できる気がする」と思ったのでした。少し変わったことをしていても、目があっても、「外国人アーティストが何か変なことやっているな」で済むような気がしたのです。他者を他者として客観視するとともに、自分を自分から切り離して俯瞰的に捉えられていた気がします。

海外滞在中に、しまったままになっていた日本のお金を久々に取り出してみると、あれ、これってなんだっけ、と少し不思議なものを見る気分になったことがあります。お金の価値、金額といった社会的な意味が抜けて、単に素材と形が見えてくる。ノートにメモを書いている時に日本語に対しても同様に、なんでこれで意味が通じるのだろう、と思ったこともあります。身近な当たり前のものが、当たり前でなくなると新鮮に見えてくる。究極に身近なものとして自分自身に対しても同様の感覚を覚えたのだと思います。

日常を生きていると、当然ですがどんどんその日常に慣れてきます。最近は引っ越しもせず、仕事も変化なくの平凡な毎日なので、だいぶ鈍感になってしまっている気もするのですが、幸い季節が変わると空気や景色が変わってくれるので、せめてそういう時期には敏感に変化を感じる感性を保っていたいなと思います。

今村遼佑

往復書簡12

展覧会もあっという間に終盤に差し掛かってきましたが、なんと会期を三日間ですが延長することになりました。22日(水)までです。20日は月曜ですが、この日も開館しています。ぜひお越しください。

今村さんの雪原の話に反応しようとしていたら、急に暖かくなってきました。点字の美しさを雪原に置きかえた比喩にはなるほどと思いました。手ざわり的に言うと氷で覆われたスケートリンクだとカップ麺の蓋のフィルムの手ざわりでしょうか。スケートもスキーも少しだけですが経験があります。雪原は、氷の表面のようにつるっとした感じではなく、点字の印字されている白い紙のイメージなんだろうと思いました。これで点字が美しいというのが少しわかったような気がします。

では、点字のタイプライター「パーキンスブレイラー」(以下パーキンスと書きます)について書きます。現在このパーキンスは、展覧会の受付に置いています。点字で芳名録を書いてもらうためです。

昔なつかしいこのパーキンスは、ぼくが中学生の頃から使っているものです。久しぶりに持ちだしましたが、まだまだ現役で使えます。パーキンスの特長は、キーを押したときに点字が紙の表面に印字されるところにあります。携帯定規などで点筆を使って1点ずつポツポツと打っていくと、読み返すときにいちいち用紙を裏返さなければなりません。パーキンスだと打ちながらすぐに読み返して、間違いなどチェック出来るわけです。

なぜこのパーキンスをわざわざ持ちだすことになったかと言うと、展示会場1階のリサーチ展示のキャプションを、墨字と点字の併記で一枚にまとめようと今村さんが提案してくれたからです。

ぼくは、このような美術作品の展示会場には、点字表記がないのがあたりまえだと思うようになってきていました。以前はぜったい点字が必要だと思っていたこともあるのですが、視覚に障害のある人の中で点字離れが進んでいることと、何でもかんでも点字という時代は終わっているという認識があり、必要なら会場にいる誰かに読み上げてもらったり、後からテキストデータでもらったりすればいいなぁというように考えています。

しかし、今回ミーティングを重ねる中で、点字に興味を示す今村さんに促されるかたちで、それならということでこの古ぼけたパーキンスを持ちだすことになったわけです。

今村さんは、点字の美しさだけではなく、アナログなガジェットとしてのパーキンスにも興味津々でしたね。タイプライターとしては、あまりに頑丈にできていて、とても重い機械です。手ざわりもとても重厚な感じがしますが、ぼくはこれをリュックなどに詰め込んで盲学校に持って行ったりしていました。

今村さんは、点字ディスプレイを作品化する中で、点字も少し覚えていましたよね。なので、すぐにおもしろそうにパーキンスで点字を書いていました。大学時代の点訳サークルに入部してくる学生さんが、初めて書いた点字を、「これ、読んでみて」とうれしそうにぼくに手渡してくれていた情景を思いだしてしまいました。

そうこうしている内に、展覧会オープンの前日に点訳作業をすることになりました。ぼくの出番です。亀井さんに墨字の原稿を読み上げてもらいながら、レイアウトも考慮して点字を打っていきます。点字には独特の約束事がありますが、墨字と併記するときには、墨字とのバランスを考えながらレイアウトを決めていきます。墨字に近いレイアウトにしながら、なおかつ、点字としても読みやすい工夫をしなければなりません。

この点訳作業は90分ぐらいで終わったのですが、なぜかとてもなつかしい時間でした。どうしてかというと、盲学校時代や大学時代にも同じような点訳作業の経験があったからです。

盲学校のときには、文化祭などで高等部の生徒全体をいくつかのチームに分けて、演劇をするのが定番となっていました。ガリ版刷りされた脚本を持ち帰って、家で親に読み上げてもらいながら点訳するのです。なぜか普段は息子の教育にあまり関心のなかった父親が、晩酌のビールもそこそこにして、この点訳作業の読み手となってくれていたのを思いだします。文節ごとに読み上げてもらい、それをぼくが点訳していくわけです。

そうそう、盲学校高等部の時には、学園闘争もありました。1970年代前半の話です。生徒の主張を共有するために多数のビラが配布されました。仲間同士で弱視の人がビラを読み上げて、点字を使う全盲者がパーキンスで3枚ぐらいの重ね打ちでビラ作りをしました。重ね打ちには、パワフルなパーキンスが活躍したというわけです。

そんななつかしい昔の記憶が蘇ってきて、亀井さんとの仲間意識を感じるほほえましい90分だったと感じていたのは、たぶんぼくだけだったと思います。読み上げる声と点字を打ちだすガチャガチャした音。そして伴走してもらいながら、1枚ずつ出来上がっていく点字キャプション。何とも楽しい時間でした。

さて、今回はそんなことをしながらスタッフも点字テプラでいろんな所に点字表記ができるようになりました。特に見えない人を意識し過ぎることなく、点字が美しくスタイリッシュに表現できた展覧会ではないかと自画自賛しています。

光島貴之

往復書簡11

展覧会、無事オープンしましたね。始まったあとは気が抜けて文章書くのがだいぶ遅くなってしまいました、すみません…。

さて前回の僕の返事で、光島さんの雪道の話に対して、点字は雪原に似ているというのをまず書こうと思ったのに、他のことを書いているうちにすっかり忘れたままアップしてしまいました。光島さんにとっては、雪道は情報が覆い隠されてしまっている状態ですが、点字を読めない人にとって、点字は意味の隠された真っ白な雪の平原と同じだと思ったのでした。それは見えない人にとっての墨字が雪の平原でもあるのと同じで、その逆転のイメージが面白く思えました。今回の展覧会でリサーチ展示のキャプションを、墨字と点字の一枚の紙の中での併記にしていますが、そこにはそのような雪原のイメージもありました。

光島さんの「夜が重い」のイメージは「暗い」「黒い」から「重い」のイメージにつながっているのかもしれない、という話で、僕の言った夜は空気が軽いは光島さんも言うように星や月のイメージが関わっている部分もあるのかもしれませんね。あと、暗くなって視覚的な情報が少なくなるので、そのせいか、音や匂いに対する感覚が鋭くなったり、生活音が少なくなくて遠くの音が聞こえるといったこともあるので、昼より空気が澄んで感じるのかもしれません。曇り空も雨はどちらも空気は重たく感じますが、空が雲で覆われているので、より視覚からくるイメージが大きいのでしょうね。たまに遭遇するお天気雨なんかは、空からの光と雨のイメージが新鮮で、より空の抜けるような高さを感じてとても気持ち良いです。

反響定位(エコーロケーション)、自分にはそういう力はないと思っていましたが、今回のリサーチの中で、僕もアイマスクをして光島さんに街を案内してもらった時、店舗のひさしの下を通る時や、一階部分が奥まった車庫になっている家の前で音が変わるのを感じられて新たな発見でした。そういえば、高架下の狭い通路などに入れば、音の反響でなんとなくの狭さは感じるし、そこから外に出ればまた音も変化するのを感じるので、そんな極端な例でいえばエコーロケーションの能力も多少は備わっているのだなと思いました。アトリエみつしまの1階ギャラリーに暗幕を張られていて音が吸収されて、「とっても明るい」と感じたというのは面白い感覚だと思います。僕自身は反響の少ない空間を明るい暗いで感じたことがなくて、他の人にも聞いてみたいところです。あるいは、見えない人には一般的な感覚なのかも気になります。でも前に話したこともあるかもしれませんが、映画館や劇場の音の無い空間は好きです。少し耳を圧迫されるような感じがあって、それが反響の無さから来るのか、空間の空気の気密性からくるのか分からないのですが、その独特な感覚からくる非日常性と、経験や記憶によってこれから何か始まる気分になるので、そういう空間に入るととてもワクワクします。

音と色の結びつきはありますか?というご質問ですが、残念ながら僕にはそういうものはないです。でも、もっと単純な話ですが、音に関して記憶や感情の結びつきはよくある方かもしれません。セミの鳴き声とか時計の音とか、それは別に僕に限ったことではなく普通のことだと思いますが、僕は作品をつくる上でそういう物事とイメージの結びつきを大切にしてきたように思います。今回のトイピアノの作品もそうですね。

彫刻に関してですが、確かに彫刻専攻を出ているのですが(改めて客観的にみると少し不思議な気がします。)、行った大学が美術科として入学して専攻は二年生の後期から選択するというシステムだった上に、僕は少しイレギュラーで初めは油絵専攻に行き、三年生後期から彫刻に転専攻したので、学生の時もその後も単に美術をやっているという意識があるだけで、彫刻をやっているという意識はほぼないんです。

今回はほぼ光島さんの話にお返事するだけになりましたが、次回タイプライターの話も楽しみにしています。

今村遼佑

往復書簡10

あと10日でオープンですね。今村さんの方の進み具合はいかがですか。ぼくの方は、51枚目の下描きを仕上げました。あとは、アトリエの優秀なスタッフ2人ががんばってくれます。

仕事の分担としては、亀井さんがぼくが言葉で書いた色点字の一覧表を読みとって、アクリル絵の具で色づけとボンドでの盛り上げをやってくれてます。「あ」・「か」・「ま」・「や」などの微妙な色の違いを再現してくれます。

高内さんはひたすら釘打ちです。本来木に打ち込むものではない待ち針をまっすぐ打つのはかなり大変だそうです。でもこの弾力性のある待ち針が堅い釘と並ぶという触覚的なコントラストはどうしても使いたい一手なのでいつも無理をお願いしています。丸頭の釘をまっすぐ打つのもなかなか技術がいるのだとか……

さて、「夜はやっぱり空気が重いように感じる」という話ですが、改めてほんとうにそう感じているのだろうかと考えてしまいました。今村さんは、曇り空の時はどうですか? ぼくは重苦しく感じます。一方、雨が降りだすとスッキリした気分になってきます。雨が降りだす前が一番苦しいような重さです。

このような感覚は、見えていたときの見え方に関係あるでしょうか。完全に見えなくなるまでの最後の方は、わずかな光だけが見えていたのですが、それが見えているような、見えていないような自分でもわからなくなった時期がありました。懐中電灯で光を確認しても見えているようにも思うけど実際にはスイッチが切れていても見えているような気がするということがありました。

で、完全に見えなくなってからも、何となく集中すると見えてくるということがあったりするのです。見えていたときの記憶が蘇ってきて、机の色が見えているような気になるとかそんな感じですね。それはいまでも少しあって、勝手に部屋の中の色を想像していることもあったり、コーヒーカップの色を説明してもらうとその色が見えてくるような時もあります。頭のなかで風景や物事をイメージするような訓練ができていたのかもしれません。

なぜこんなことを書くかというと、失明していく時期に獲得した色点字以外にもう1つ獲得したように思える感覚があるからです。それは対物知覚です。ところがこの対物知覚と呼んできた言い方はいまでは使われなくなったようで、反響定位(エコーロケーション)と呼ばれていることを知りました。舌打ちで音を出したり、白杖で地面をたたいたりして、その反響音でまわりの様子がわかるという、こうもりやイルカのようなものですね。

しかしぼくは、音を意識的に出さずに、たぶん足音や、そのものが出している音の響きからものがあることを感じているように思います。

子どものころですが、祖父母のいた大徳寺の家からの帰り道、特に夜に車が止まっているとその1mぐらい手前で何か黒いものがあると感じていました。黒いというよりは、重い空気感のような気もします。止まっている車の横を通りすぎるとその車の終わりが感じられるのです。なぜかこのような感覚は、夜の道ですごく敏感になっていたように思います。「夜になるとよく目が見える」などと言っていたのを思い出しました。

ところが年とともにこのような「エコーロケーション」の感覚は落ちてきています。たぶん聴力の低下が原因かと思います。特に15000Hzあたりから上の音が聞こえなくなってきていることと関係があるのではと思っています。

何か話が脱線してしまいました。関係があると思って書きすすめたのですが、まとまらなくなってきました。ぼくの視力では、夜は暗いというイメージしかなくて、特に当時はいまより暗い街だったと思います。夜空の星や月が見えるほどの視力でもありませんでしたので、夜は黒い→重い。色のイメージから連想したことかもしれません。

前にも書いたように響きの少ない空間が好きです。なのでアトリエのギャラリースペースは少し反響が大きくて、さらにエアコンの音もうるさいと暗いなぁという感じがします。この前、演劇で使ってもらった時に、暗幕を貼っておられると音が吸収されて、とても明るい抜けのいい空間になっていました。とっても明るいと感じました。今村さんには、音と色との結びつきなどあったりしますか。

ところでこの間お誘いしたヴァンジ彫刻庭園美術館は、大徳寺の石庭に誘ってもらったお返しのつもりでしたが、旅費もずいぶん掛かってしまいました。それなりに楽しんでもらえていたらよかったです。今村さんが彫刻を通りすぎてしまっていたというのにはちょっとビックリです。彫刻科出身でしたよね。始めからインスタレーションを目指していたんですか。

今回は、野外彫刻を自撮りするというぼくの作品の編集をお願いすることにもなりました。よろしくお願いします。次回の更新は、展覧会オープン後になるかもしれませんが、ぜひ点字のタイプライターについて書きたいと思っています。

光島貴之

往復書簡9

雪の日に町を歩く話、とても面白かったです。
京都では今年初めての積雪でしたが、いつになってもその年の初めての雪は軽い感動を覚えます。ただ、今年はいつもと違って、実は横浜からの帰りの新幹線に乗っていたので、とにかくこれ以上ひどくならないでと祈るような気持ちでした。米原あたりから徐行運転だったのですが、途中しばらく停まったり、京都ついてからもバスが全然来なかったりで、帰れるかどうかハラハラしていました。

そらで歩く、とても詩的でおもしろい表現ですね。確かに積雪は世界を一変させますが、僕にとっては景色がいつもと違っているだけで、どこかへ向かう時に必要とする情報はほとんど失われないのですが(道の境目が分かりにくいとかはあります)、光島さんにとっては足元の情報が消えて全然違う世界になっているというのは、なんだか示唆に富んでいるというか、面白いなと思いました。その変化の状態と、「そらで歩く」という詩的なキーワードで、何か作品にもつながるのではないだろうかと思いました。(人のことなので気楽に言っていますが。)

世界の変わり方が、違うというのは面白い部分だと思います。晴眼者にとっては、昼と夜の差、あるいは部屋の電気をつける・消すは、積雪以上に大きい環境の変化なのですが、光島さんにはたいした変化ではない。と書いたのですが、光島さんの文章を読み直すと、正月の話の中で、「夜はやっぱり空気が重いように感じる」と書いてますね。僕にとっては、どちらかと言えば、夜は昼間よりも空気が澄んで軽くなるような気持ちになりますが、その違いも気になるところです。

僕のアトリエのある亀岡は霧で有名な町ですが、霧もそうですね。たまに早朝にアトリエに行った時にとても濃い霧に包まれる時があるのですが、視覚的には周りが白くかすんで幻想的な風景になるのですが、光島さんにとっては少し空気が違うぐらいでしょうか。そういった世界の変化の受容の違いというものが、見える人見えない人の間だけではなく、光島さんのいう正月の朝の感覚のように、育った文化や個人差によって、いろいろな人の間であるんだろうなと思います。

そういえば、庭の時に書いておられた、「縁側に日が差していて暖かいところとそうでないところがあったのも(中略)触覚や音のコントラストとして楽しめました」というのは、僕にとっては何か新しい感覚として感じました。日差しの当たっているところが暖かいのはよく知っているはずなのですが、その差を愛でるということはあるだろうかとか。経験的に言えば、夏に木陰に入った時の涼しさとか、春の縁側のあたたさとか、そういうものを心地よいと思っている状況というのはあるのですが、思い出そうとすると、どちらかというと視覚の光と影のイメージの方が強いので、その温度の感覚は奥に潜んでいるように思います。その潜んでいる部分だけを取り出されて提示されたようで、でもそう言えばその感覚はとても好きだったなと思ったりしました。

先日、光島さんと一緒に参加したヴァンジ彫刻庭園美術館の触って鑑賞するワークショップもとても面白かったです。見た彫刻を思い出そうとする時に、触感を伴って作品が思い出されるのは、ほとんどない経験でした。大理石のなめらかさや、ブロンズのひんやりとした感覚が形とともにふっと思い出されます。実をいえば、僕にとって彫刻は美術の中で一番分からないというか、美術館の常設展だと、わりと流し見してしまうことが多かったのですが、少し違う感覚を持てた気がします。

今村遼佑

 

往復書簡8

ぼくがファンタジーを読むのは、作品に行きづまった時が多いですね。何かしらのヒントやひらめきをもらっています。

さて、大徳寺の石庭で感じたのは、音の抜け具合とか、外の世界から隔絶したシーンとした感じでした。縁側に日が差していて暖かいところとそうでないところがあったのも、背景に鳥が鳴いていたり、まちの騒音がわずかに聴こえているのも、触覚や音のコントラストとして楽しめました。

今村さんが提案してくれている、庭に降りるというのは、それはやってしまっていいのか、いつも迷うところです。シーンとした感じをぼくの足音で台無しにしてしまう危険性があります。庭の中に入ってしまってはダメなような気がするのです。回遊式の庭園なら問題ないと思いますが……。

一方、図式化してさわれるものがあると持ち帰って、くり返しさわることができるので、後でふり返るためには必要かなと思います。写真の代わりですね。

このテキストを書いていて思いだしましたが、学生時代にししおどしが気になって詩仙堂に行ってみました。ところがその音がラジオか何かで聞いていたのとは違っていてがっかりしたことがありました。竹筒が石に当たってコーンという音がしますが、その音が竹筒が割れているのではないかというような貧相な音だったのです。何か違うと思って苔寺に行ったら少しましな音を聴けました。録音された音がよすぎたのかなぁ。そういうことってありますよね。

ところで話は変わりますが、24日の夕方から降り始めた雪ですが、ちょうどぼくがアトリエから帰る時、5時頃にかなり強くなって来ていて、帽子をかぶり、いつもになく手袋もしていたので、引き返すことなく一気に鍼灸院までの道を1人で歩きました。たぶん歩き始めは、3cmぐらい積もっていたかと思いますが、10分ほど歩いている間に一気に5cmぐらいになっていたようです。踏みしめる度にキュッキュッと音がして気持ちよかったです。久しぶりでした。

最近使っている白杖はスライド式で路面を滑らせて行くのですが、雪の日に使うのは初めてで、雪をかき分けかき分けて進む感じでした。左右に動かすことは雪の重さにじゃまされて無理でしたので、ひたすら前へ前へとすすめていきました。

いつも目印にしている白線の盛りあがりや、道路際の傾きなどはまったく分かりません。かろうじて四つ角などを感じる程度の情報で歩きました。それでも歩き慣れている道だからか、一度道路沿いの壁にぶつかっただけで無事帰れました。

こういうのを「そらで歩いた」と子どもの頃に言ってたように思うのですが、思い違いでしょうか。「暗記している」というような意味で「そらで言う」などと使っていたと思います。まさに、この雪の帰り道は、「そらで歩いていた」という言い方がピッタリかと思うのです。なぜかというと地面の固さがなくて、少し浮遊感があり、まったく知らないところを歩んでいる感じでした。極端に言えば宇宙を歩いている感じです。ひたすらぼくの中にある位置情報だけで歩いていたわけです。

音的には、雪で周りの音が吸収されて響きがなくなっているので、無響室の中のようでもありました。同じまちを歩いているのに周りの音が変化してしまうととっても崇高な感じがします。それは、石庭を前にした感覚にも通じるところがあると思います。

今村さんが神社で手を合わせるときの感覚と言っているのを聞いて思いだしたのは、子どもの頃の正月のまちの音です。今ほど車が走っていなかったので、特に元旦の朝は静かでした。まちを歩く時の感覚が普段とは違っていたように思うのです。もちろんまちの風景は見えていなかったので音だけで感じていたまちです。

すがすがしい感覚というのでしょうか。お昼頃になるともうその感覚はなくなります。かと言って、真夜中にまちを歩くのとも違うのです。夜はやっぱり空気が重いように感じます。

ちょっと雪の話から脱線したようなことになりましたが、今日は雪のことを書きたかったのでした。

ぼくは、見えないがゆえにインプットできているおもしろい感覚がいろいろありそうなのですが、それを作品としてアウトプットしていくのが、まだまだへたくそです。今村さんとやりとりしていてつくづくそのことを感じています。

最後になりましたが、「手でみる彫刻コンペティション」については、ぼく自身も作者として参加したいという思いもあるのですが、審査員として好きなことを言っている立場のおもしろさもあるので、もうしばらくは審査員にしておいてください。

光島貴之

往復書簡7

お返事が遅くなってしまいました。年が明けたと思ったら、あっという間に一月も後半ですね。

友部正人、あまり詳しくないのですが、学生の頃にたまにパラパラと読んでいた現代詩手帳で谷川俊太郎と対談していて、なんだかかっこい人だなと思ったのは覚えています。今度、ちゃんと聞いてみます。
モモ、ゲド戦記、指輪物語、光島さんがそういった児童文学を今も愛読されているのは意外でした。僕は指輪物語は読んでないのですが、モモやゲド戦記は何度も読んでいて、特にモモを書いたミヒャエル・エンデの「はてしない物語」からはとても影響を受けていています。作品を考える時に、フィクションと現実の揺らぎとか、作品と作品でないもの境界とかを意識するのですが、そういうのに興味を持ったきっかけの一つだと思っています。

さて、光島さんは僕の作品の中で抱いた感情と、尾崎放哉の句、大徳寺の石庭に行ったことの3つを挙げてつなががりがあるのではとおっしゃっていましたが、共通点としては、いかにミニマルな要素で最大限に心に働きかけるか、というところかなと思います。俳句は、要素を削ることで読み手の想像力を喚起し、イメージに広がりを持たせますが、僕の作品や石庭にも同じような部分があると思います。

大徳寺の庭を見に行きましょうと提案したのは、単純にアトリエみつしまのすぐそばにあるということと、石庭を眺めるという行為の中には視覚以外のものがいろいろ含まれている気がしていたからでした。以前、神社の境内で手を合わす時に視覚以外の感覚が開くような瞬間があるといったことを話したと思うのですが、庭を眺める時も、目を開けながらそれにも近い感覚があるような気がしていたのでした。そして、それが自分の作品にも関係しているという感覚がありました。単純に聴覚や肌で感じる空気の感覚に敏感になるだけでなく、鋭敏になった感覚からの情報が心の深い場所に作用するといった状況があるのだろうと思います。

ただし、いざ実際に光島さんと行ってみると音環境や空間の抜ける感覚は他と違う面を感じられた一方で、そうは言ってもやっぱり視覚的な部分も多いのか、とも思いました。同行してくれていたアトリエみつしまスタッフの高内さんの力も借りながら、対話鑑賞のように口で説明していましたが、僕の語彙力ではどんな風に伝わっていたかは正直なところ不安ではあります。理想を言えば、庭の中を歩き回れたり、あるいは触れる立体模型などで、庭の石や苔の配置を把握してもらった上で眺めてもらえることができれば良かったのにと思いました。

ところで、尾崎放哉の句、後ろの2つは知りませんでしたが、とても良いですね。刹那的な感じと取るに足らないどこにでもある感じの両方あって、自分の興味的にもとても惹かれます。

1月の「手でみる彫刻コンペティション」ではご協力ありがとうございました。企画者としては、会が盛り上がるかどうかでけっこう不安だったのですが、もう一人の企画者の高野いくのさんがうまく進行してくれたこともあって、なかなかに面白くなりましたね。光島さんがいうように審査会にしたのは真剣になるという点で良かったように思います。見えない人も見える人も誰もが対等に意見を交わすというか、どちらかというと見えない人が経験値的に上の立場で議論できていて、良い場になっていた思います。今回は作品を作ってきた人も触っての審査にも参加してもらっていて、僕も自分の作品を出した上で他の人の作品を触って鑑賞していましたが、触る立場としてはその後の議論も含めてとても面白かったですが、作る立場で言えば、いろいろ反省点が多かったので次回はもっと良いものを作りたいと思っています。光島さんも次回は出品者としてもぜひ参加を。高野さんとは年1回で続けようかと話していました。

前回の僕の返事で、触覚に対するつっこみどころが満載だったとのこと…、そうなんですか笑。これまでの興味を考えてみると、触覚は一番わかってない気がします。
また、その後に聞いた光島さんのラジオに収録されている「まなざす身体」展のクロージングトークでの、触覚とイメージに関する話が、頭にハテナが浮かんだままでしたが、とても面白かったです。あの話は他の参加者もよく分からないままだったのではないかと思いますので、もう少し補足がぜひあれば教えてください。

今村遼佑

往復書簡6

返信が遅くなってしまいましたが、今年もよろしくお願いします。

もう115日ですね。小正月です。昔はこの日が成人の日でもありましたね。餅好きの家族だったぼくの家では小豆粥にお餅も入れて食べていました。何だかこの往復書簡をしているとなぜか過去の記憶が蘇ってきます。

返信が遅れていた理由の一つは、この際に昔読んだ中原中也を読み返したり、今も聴き続けているフォークシンガーの友部正人の20枚ほどのアルバムを聴き直したりしながら作品に使うことばをあれでもないこれでもないと考えにふけっている間にさらに『モモ』や『ゲド戦記』、そして『指輪物語』などのファンタジーの世界にどんどん沈んで行ってしまいました。最終的には、中也に戻って来て制作も始めることができましたが。

さて、前回の今村さんのメールの中で

 二つ目は視覚情報の有無という違いがあるのですが、その差を超えて、僕も光島さんも当時の少年二人はほぼ同じ体験をしているようにも思えます。

このことに触れながら今村さんの作品、「どこかのこと」2021(モーター、Arduino、導線、拾ったもの、身の回りのもの)についてのぼくの共感についてのあり方に言及されていました。

その時の感想をもう一度ここに書きます。

普段2階の大広間は、ワークショップやシンポジウムなどでも使っていてぼくもその大きさを理解しているはずでした。しかし今村さんの作品から発せられるわずかな音がいろんな方向から聴こえてくることで改めて部屋の広がりや大きさを感じとることができました。壁に沿って部屋を歩いたり、畳の縁に沿って歩いてみても決して感じ取れない部屋の広がりを感じたのでした。

ここまではすでに書いてきた音の定位が気になるというぼくの感覚からくるものです。そしてこのことは今村さんにも伝えていましたね。

でも、実は、もう1つ伝えていなかった感想があります。それは、だんだんその静けさの中にいると淋しいようなノスタルジックな感じがしてきたのです。

どこか喪失感にもつながるかもしれません。そういう意味では中也の詩編にピッタリかとも思いましたがどちらかと言うと尾崎放哉ですね。

せきをしてもひとり

宵のくちなしの花を嗅いで君に見せる

庭石一つすゑられて夕暮が来る

(『尾崎放哉選句集』より)

ひょっとしたらこのような感覚が、今村さんとのこのプロジェクトの始まりに大徳寺の庭に行ったこととつながるのかもしれないなと思っています。このあたりもぜひ聞かせてください。

前回のメールには、触覚に関係するつっこみどころが満載だったのですが、またそれは次の機会に譲りたいと思います。

最後に18日に行われた「手でみる彫刻」コンペティション」についての感想です。見える人が触覚を意識して作った粘土作品を見えない人が審査員になって感想を話しあうというものでした。見える人も布をかぶせた作品を見ないでさわりました。

見る要素を排除してしゃべれると言うことでぼくも含めて何人かの見えない人も遠慮なく感想を話していたと思います。どうしても見た目にはどうなんだろうということを気にしていると見える人の発言に引っぱられてしまうように思いますので、今回の試みは、とても意味があったように思います。

ぼくが粘土で作品を作り始めたのは、西村陽平さんの「視覚を越える造形ワークショップ」に参加したのがきっかけでしたが、その場でも見える人はアイマスクをして作っていたりしました。出来上がった作品をお互いにさわって鑑賞するという時間も毎回設けられてはいたのですが、その当時は、「みんなおもしろいかたちを作っているなぁ」というぐらいの感想しかぼくはしゃべれませんでした。粘土を20kgぐらい使って大きなものを作ろうというのも目標だったりして、大きすぎてわかりにくいと言うこともありましたが、何かもう1つ意識付けが足りなかったように思います。

そういう意味で、今回はずいぶん盛り上がった感想会になっていたと思います。ぜひ続けましょう。

光島貴之

往復書簡5

新年明けましておめでとうございます。

僕が最初に往復書簡でなくブログがいいと言っていたので、光島さんは「往復書簡のようなブログ」と呼んでくれていますが、実際もう往復書簡的なので、往復書簡と呼んでしまいます。

さて、前々回の返信の方で光島さんが挙げられた子どもの頃の記憶はどれも共感できて興味深かったです。ただ、考えてみるとその共感の仕方がそれぞれ違うようです。

・朝、物置になっていた子供部屋の畳に日が差して部分的に明るくなっていたこと、埃と畳のにおい。
・盲学校高等部での窓際の席からの音の風景や雨の匂い。
・柱時計が音のしない時計になっていたことと両親への不信。

一つ目は光島さんが少し見えていた時の記憶なので、その光景がそのままイメージできます。
二つ目は視覚情報の有無という違いがあるのですが、その差を超えて、僕も光島さんも当時の少年二人はほぼ同じ体験をしているようにも思えます。
三つ目は、事柄は見えない人特有ですが、些細なことでも親に反発してしまうというその世代に共通の感覚で、僕も別のエピソードに置き換えて共感しているようです。

特に二つ目の共感のあり方が気になります。僕がアトリエみつしまでの「それはまなざしか」展で出した、壁をいろいろなものが叩いて音を立てるインスタレーションを光島さんが気に入ってくれたこととも関係する気がします。光島さんがあの作品で、初めて大広間のだだっ広さが分かった、と言ってくれた時に、何か作品の重要なところがストレートに伝わっている気がしてとても嬉しかったのですが、あの作品は視覚的な要素もあるのですが、その要素を除いたとしても本質的なものが伝わるということはあるのだと気づいたのでした。

ぼくの場合環境/世界を感じるときには、まず一番に触覚を使っていると思います。(中略)距離をとることは、景色/世界を失うことでもあります。

これはハッとします。
もちろん、光島さんもこれは極端なこと、と書いているようにそれだけで世界を失うわけではないのでしょうが、接触できる物事と、触れられない物事はそれだけ違うレベルで存在しているのだろうと思います。
あと、ここで触れる世界を「景色」と書いているのが面白いと思いました。音と景色(というか風景という語の方が適当かもしれせんが)にはサウンドスケープという言葉があり、いろんな研究もありますが、触覚の風景についてはあまり聞きません。触れられる範囲だとどうしても距離が限られてしまうからでしょうか。あるいは、触っている部分部分の積み重ねでしか全体を把握できないからでしょうか。
光島さんは触れることと景色との言葉の結びつきからどんなことをイメージされるでしょうか?

前回の最後に書かれていた、

このあたり今村さんの美意識における特異性などあれば教えてほしいです。

について。

「このあたり」に当てはまるかわかりませんが、「遠くのこと」というのは美意識というか、ある種の惹かれる要素としてずっと持っています。大きな要素ではなく、小さな要素を用いたりするのは、それもあると思います。遠くのものは小さく見えます。音も同じです。僕の作品に対して、意識を集中させる、といった表現で表されることに、それもあるけど何か違うと違和感を感じるのですが、僕の本来の意図が見えていなかった細部を注視させることではなく、むしろ、点在する小さなものを通して見えていなかったより大きな全体を眺める、というところにあるからだろう思います。それは集中よりリラックスに近く、それこそ、窓際の席にすわるようなものだと思います。
小さなものを使うというのは、例えば、窓のすぐそばでカラスが鳴いたとすると意識の中でカラスの存在が際立ちますが、遠くで小鳥がさえずっていると、鳥が風景を伴って脳裏に浮かぶ感じがあります。眺めが良いという言い方がありますが、それは大抵遠くまで見渡せることを言います。そしてそういう場所はとても気持ち良い風が吹いていたりします。比喩的な観点でも、作品が世界に対する新しい見方を提示できていると、そんな空間の抜けの良い、風の吹く場所に立っているような感覚があって、そういう感覚を作品に持たせたいと思ったりもしています。

もう一点、光島さんのいう、指先の情報として感覚と手のひら感覚、というのは面白いと思いました。情報把握とそれを味わう感覚、とも言えるかもしれません。触覚による仕事量というか、仕事の質の種類の数が違うというのは確かにそうですね。書きながら思ったのですが、光島さんのいう「情報としての指先の感覚」と「手の平全体で感じる質感」とは、先に僕が遠くのことについての中で書いた「細部を注視すること」と「全体を眺めること」に置き換えられるかもしれません。昔、「ながめるとみつめるのあいだ」というタイトルの個展をしたことがあるのですが、眺めることと、細部を見つめることのどちらもが必要で、その感覚の間の往復運動の中で物事を考えたいという意図でした。
あと、手で味わう感覚に関しては1月8日に光島さん協力のもと、僕と高野さんの企画でやろうとしている触って判断する立体作品のコンペにもまさに関係していますね。
ただ、見える人、見えない人含め、触って鑑賞する際のその良し悪しの基準に、ある程度の普遍的なものが存在するのか、それとも人によってバラバラなものなのか、参考にするサンプルが少なすぎてわからないなあとも思っています。美術館にある彫刻も全て視覚的判断(もしくは美術史的判断)から選ばれた物であって、触覚的価値から選ばれているわけではないですし。そういったことも含めて実験的に開催できればと思っています。

これはやや余談ですが、光島さんのブログで、見えない人は物の認識のために触る必要があるが、見える人はわざわざさわって確認しませんよね、と指摘していて、その通りだと思ったのですが、最近気づいたのですが、僕の無意識の癖で、スーパーで買う商品を迷った時にちょっと触ってみるというのがありまして、重さとか硬さを確かめているとも言えるのですが、考えてみると、迷った最後は普段使わない触覚を使ってインスピレーションを得ようしているような気もしました。これは他の人も共感してくれるかもしれませんし、そうでもないかもしれません。ただ、やっぱり触れるというのは物の実体に触れるわけで、視覚とは違うレベルでの自分と物との交流が生まれるように思います。

庭の話にも触れたかったのですが、長くなりすぎるので今回はこの辺にします。

今村遼佑

ブログ第4回

今村さんが感じている美がどんなところにあるのかがよくわかりました。

日常において、光、音、味、匂い、皮膚感覚などの組み合わせの、その欠け方により対象との距離感は変化し、物ではなくてむしろその変化する距離の中にこそ美しさのようなものが生まれるのではないかと感じています。

この距離感の変化に注目するというのが、ぼくにはかなり苦手です。人との関係に置いてもその距離のとり方には自信がありません。それはまあいいとして、ぼくの場合環境/世界を感じるときには、まず一番に触覚を使っていると思います。点字を読む。さわってもののかたちや大きさを認識する。鍼をする時にも、脈診や、腹診。筋肉の硬さや、つぼの場所をさぐるのもすべて皮膚の接触において成り立っています。距離をとることは、景色/世界を失うことでもあります。

極端なことを書いてしまいましたが、ぼくにとっては距離の変化を感じ取れるのは、音です。音については、いろんな変化を受け入れることができそうです。

盲学校時代には、50m走というのがあって、ゴールで、金や太鼓が連打されていて、それに向かって2人が競争して走る。金を目指す人と太鼓を目指す人が同時に走ります。50m7.2秒というのが最高記録だったような。もう忘れてしまいましたが、短距離は比較的得意でした。

盲人野球では、ハンドボールぐらいの大きさのボールが土の上をバウンドしたりしながら転がってくる音を聞きながらキャッチします。卓球では、ピンポン球の中に散弾が3つ入っているのを転がします。その音を聴きながらラケットで打ちあいます。

そんな音ゲームのようなことばかりしていたことも影響してそうですが、音の定位についてはかなり敏感です。横断歩道には、点字ブロックでの誘導がほとんどありません。音響式信号機の「ピヨピヨ」を聞きながら向かい側まで歩くわけです。音響式信号機のない交差点では、止まっている車のエンジン音や、もう一方の車の流れている音などから、まっすぐ歩くための情報を得ています。

音楽などを聴くときにも、まず音の定位が気になります。音の広がりや、奥行きや、音の動きが気になるのです。実は、音楽そのものの美しさなどがわかっていないかもしれません。

これは、触覚について書いたブログでも取りあげたことですが、情報としての指先の感覚に注目するあまり、手の平全体で感じる質感などを軽視していることにもつながるのかもしれません。

このあたり今村さんの美意識における特異性などあれば教えてほしいです。

光島貴之

過去のテキスト-光島さんへのメール2

こんばんは、今村です。

過去のテキスト、第二弾お送りします。

こちらは、2011年、僕にとっては初の大きな舞台になった資生堂ギャラリーでの個展の公募に通った際に、その発表がされるサイトに寄せた短いテキストです。
でも、現在に至るまで自分の中では大事な感覚を的確に述べている気がします。

このような機会を頂き大変嬉しく思っています。この文章を書いている途中、雨が降り出したのですが、夜で外が見えず正確には雨音がしだして気温と湿度が変化したのを感じた、とでもいうべきで、雨に限らず対象を知覚するにあたり人間のすべての感覚がいつも満たされているわけではありません。日常において、光、音、味、匂い、皮膚感覚などの組み合わせの、その欠け方により対象との距離感は変化し、物ではなくてむしろその変化する距離の中にこそ美しさのようなものが生まれるのではないかと感じています。

ここまでです。

もう一つ、短いテキストをお送りします。
2016年3月に行った、京都のアートスペース虹での個展に寄せたテキストです。
この頃は(今もですが)、展覧会と季節をよく考えていました。

バケツに氷が張ること。降り落ちる雪が雨に変わること。夜に沈丁花の匂いを嗅ぐこと。白木蓮が咲くこと。廃番になったもう手に入らない画材で絵を描くこと。
土地を移動することと同じで、それまで馴染んでいた空気が変わるため、季節が変わる時期は身の回りの環境それ自体への気づきが多くなる。その空気は予兆と喪失をはらんでいて、生み出されるものと消え去っていくものの絶え間ない流れが色濃くなるその場所で、世界のその確かさを、あるいは不確かさを、確認する。

ここまでです。
このテキスト、最初の「バケツに氷が張ること」から「廃番になったもう手に入らない画材で絵を描くこと」までは、その展覧会で展示した複数の作品のそれぞれのテーマやモチーフでした。

今村遼佑

往復書簡みたいなブログ(第2回)

2023年2月にアトリエみつしまで開催する今村さんとの二人展「感覚の果て」に向けてお互いの感覚をすり合わせていこうということになり、第1回目として今村さんが展覧会のテキストとして使われたものを読ませていただきました。

ここでは、そのテキストについての感想などを書くことにします。
今村さんのテキストを読んでいるとぼくの過去のイメージが甦ってきます。10歳頃まで少しだけ見えていたときの記憶です。

アトリエの窓の左右そろっていないカーテンの隙間から、斜めに差し込む朝陽を横目に眺めつつ、がらんどうになった部屋と窓と木について考える。

この部分で思いだしたのは、近所の幼稚園に通っていた頃の記憶です。木造2階建ての家に住んでいたのですが、2階の子ども部屋が物置状態になっていました。その部屋は、南向きで通りに面していたので、朝、2階に上がると日が差し込んでいて、畳が部分的に明るくなっていたのを思いだしました。埃と畳のにおいが入りまじっていたことも思いだしました。

子どもの頃、学校では窓際の席が好きだった。
外にいるのではなく、外を眺めるという行為は、その目に見える遠い場所に憧れながら同時にその距離の遠さに安心しているようでもある。

このテキストで思いだしたのは、盲学校高等部の普通科に通学していたときのことです。木造校舎の階で10名足らずの教室でしたが、やっぱりぼくも窓際の後ろの席が好みでした。
窓を開けていると運動場の音が聞こえてきたり、雨が降りだす前のにおいが流れ込んでくるのも好きでした。そんなときは、何か遠くまで見えているような気がして、窓から見える音の風景を覗いているような感じがしていました。

巻き鍵を差し込んで回すと、がたがたと思いのほか大きな音を立ててゼンマイが軋んだ。徳島の山奥の祖父母の家にあったもう動かない柱時計のことを思い出した。

最初に書いた子ども部屋の記憶につながるのですが、柱時計の壊れたので遊んでいた時のことを思いだしました。
針を手で回していくとぼーん・ぼーんという音が聞こえるのですが、柱時計として設置されていたときの音とは違っていて、反響がなくて壊れたおもちゃのような音に、何かしらはずかしさを感じました。

中学になって引っ越した家にあった柱時計は、いつの間にか新しい電気仕掛けの時計に変わっていました。
それは、まったく音のしない時計でした。
柱時計の音で時間を察知している息子のことが何もわかっていないなぁ、という父母に対する不信感が高まっていた反抗期でした。

家の中で、家の中にいることについて考える。いつしか降り出した雨を聞く。屋根からの滴りが定期的なリズムであちらこちらをノックする。意識は外に伸びていく。
夜、電気を消すと、雨が部屋の中でも降り出したようだった。漏れだした雨の気配で、畳がじっとりと湿り気を帯び始める。

家の中にいて聞く雨の音はほんとうにおもしろいです。濡れはしないけどじっと雨の中にいるような気持ちになりますね。

ということで印象的なところを引用しながらぼくの経験を書いてみました。もちろん、ぼくには実感の持てないところもありましたが、今村さんが感じている感覚の中でぼくに迫ってくるものがあることは確かでした。

光島貴之

過去のテキスト-光島さんへのメール

こんにちは、今村です。

僕の過去のテキストをお送りします。

2014年の奈良の古い小さな2階建の空き家で行った展覧会で、会場内に作品の一部として置いたテキストです。会場となった民家はボロボロでしたが、中庭に大きな木があって、窓からの光も綺麗でした。そこに散らばるように設置した作品や会場自体とテキストがリンクするようにつくってあるので、かなり言葉を省略していて、単体で読むと意味が取りずらいかもしれませんが、想像で補ってもらえれば幸いです。
過去のテキスト、あと何回か準備でき次第、お送りします。

この下に貼り付けます。二千文字ほどです。

 

 

家と窓と木について

イメージこねくり回しながら、周回する。見えない木の根元のぐるりを巡るように。

1
アトリエの窓の左右そろっていないカーテンの隙間から、斜めに差し込む朝陽を横目に眺めつつ、がらんどうになった部屋と窓と木について考える。

2
今年の梅雨が明けてしばらくした頃、アトリエの近所にあった大きな杉の木が、ある日突然なくなってしまっていた。その後しばらくは、その光景に強い違和感を覚えていたはずなのに、いつの間にか気づくとその不在感は静かに立ち去っていた。大家のおじいさんが、杉の葉を貰ってきて、酒屋によくある杉玉を作っていた。このあいだ美術館で見た禅僧が丸を描いただけの掛け軸を思い出した。消えてしまった存在は、円となって大家さんの玄関先で宙に浮いている。

3
中学生の頃、通っていた学習塾へいく途中の軽自動車がぎりぎり入れる程度の細い道沿いに大きな木があって、友人の一人が考案した新しい自転車の乗り方などを試しながら、みんなでその下を通っていた。小さな家の庭から建物を圧迫するように太い幹が伸び、上空で枝を四方八方に広げて細い道路を覆っていた。その下を通る事がなくなって、もう十年以上経つが、あの木は今も残っているのだろうか。
まだ木の存在するかも知れない風景と今はもう無いかも知れない風景とが、シュレーティンガーの猫のように重なって、頭の中で不確かな像を結ぶ。

4
子どもの頃、学校では窓際の席が好きだった。
外にいるのではなく、外を眺めるという行為は、その目に見える遠い場所に憧れながら同時にその距離の遠さに安心しているようでもある。

5
その窓からは、中庭の大きな木が見えた。
人がいなくなってだいぶ経つという民家で、木は巡り続ける季節を告げてきたことだろう。
空白の中でこそ見えてくる色がある。

6
巻き鍵を差し込んで回すと、がたがたと思いのほか大きな音を立ててゼンマイが軋んだ。徳島の山奥の祖父母の家にあったもう動かない柱時計のことを思い出した。

7
止まったままの柱時計を直そうかと文字盤を外してみたが、どうやら分解して洗浄しなくては直らないようだった。ゼンマイを巻いて振り子に重りを付けて揺らすと数十秒は動くが、やがて止まってしまう。でも、指で分針をゆっくり12時にもっていくと、鐘の方はちゃんと動いて時刻の数だけ時を打ち、がらんどうな部屋に心地よく反響した。
庭では木漏れ日とともに、時間が落ち葉のように降り積もっている。

8
古い照明が点滅を繰り返すように、長い過去を持った建物は、現在に過去が時折ちかちかと交錯する。その点滅は眩暈に似て、足裏の地面の感触を頼りなくさせる。

9
夏、郊外の国道を原付で走っている途中、いきなりの雨に打たれ、街路樹の下でしばし雨宿りを余儀無くされた。雨は、陽が射しはじめてもしばらく降りつづけた。葉の隙間からは木漏れ日と雨が同時に降ってきて、光と音がちらちらと揺れた。繁った葉の下で、落下という現象が質感を変えて交錯する。

10
家の中で、家の中にいることについて考える。いつしか降り出した雨を聞く。屋根からの滴りが定期的なリズムであちらこちらをノックする。意識は外に伸びていく。
夜、電気を消すと、雨が部屋の中でも降り出したようだった。漏れだした雨の気配で、畳がじっとりと湿り気を帯び始める。

11
流れ続ける時間の中にあっては、動かない方が時間を感じられる。昔作った本の上に小さな回転木馬が回る作品が、あるギャラリーの中では、ほとんど止まって見えたのに、そこではむしろ速く見えた。馬を回転させるための動力として使った時計の秒針が、そこに流れる時間の速度を体感するための標石となる。

12
夜の道路で曲がり角を曲がった拍子に金木犀の匂いにぶつかった。いつもよく通る道が不意に質感を変える。辺りを見渡しても何も見えず、ブロック塀と民家の黒い影が見えるだけ。暗闇に不確かなイメージが浮かぶ。

いつ頃から始まって、いつ頃終わったのだろう。
もうすでに金木犀の匂いが思い出せない。匂いに関する記憶はいつも不確なのに、何よりも記憶に直に触れたような気がすることがある。巡る季節の螺旋を垂直に貫通した落とし穴に落ちるように、夜の道路で過去に着地することもある。

13
落とし穴から上空を見上げると、過去と未来が直線で繫がる気がする。
この世界に生まれたのは秋の始まりの頃で、晴れていたのであれば気持ちのよい気候だったはずだ。金木犀はまだ咲いていなかっただろう。いつしかこの世界を去る時、あたりはどんな季節に包まれているのだろうかと想像する。

14
展示することと季節について考える。
季節が変わって空気が変化すると、見えていなかったものが見えるようになる。その差異の在り方について考える。

カーテンの隙間から差し込む陽の光が、床を出現させるように、日常の中にフィクションを差し込む、あるいは、その逆によって、見えない場所に広がる余白を探す。

 

今村遼佑

はじめに

このサイトにおける一連の文章は、美術作家の光島貴之と今村遼佑による展覧会「感覚の果て」に向けて、両者が日常における感覚や記憶、作品のテーマなどの意見交換を目的にしています。

12月19日に、京都ライトハウスに光島さんと高内さん(アトリエみつしまマネージャー)、僕(今村)で見学に行った後、近くの喫茶店でお茶をしていた時に、最近の光島さんのブログを読んだ僕からリレーブログのようなことがしたい、という提案をしたのがきっかけでした。

光島さんは、賛同しつつも「ぼくはたぶん往復書簡みたいな文体になってしまうと思うけど」と言っていてて、実際、リレーブログとは別で過去に書いたテキストを今村から光島さんに送った際にこのメールに返信する形でなら、スムーズに始められそうという話になり、そのままこちらに転用してスタートすることになりました。

今村遼佑