往復書簡20「匂いとしての木」
光島さんへ
木の表面のさわり方の変化、おもしろいです。光島さんぐらいさわることに関するベテランになってもまだそんな発見があるんですね。
さわり方の違いは、5月に渋谷公園通りギャラリーで触覚の机のワークショップを一緒にやった時にも、さわり方を変えてみると同じ素材でも感触が違うという話を光島さんが言っていて、なるほど確かに、と思ったのですが、その時は自分がそこを考えていなかったのが、単にさわることに対する意識の低さだと思ったのですが、今回の木のさわり方を考えてみると、意識の低さには違いないですが、さわり方が下手というわけではなくて、目で見ながら物をさわるときは無意識のうちにさわり方を最適なやり方に調整しているのでは、ということに気づきました。柔らかいもの、硬いもの、壊れやすいもの、とげとげしたもの…、それらに合わせて力加減、手の形、部位を意識せずに選んでいる。だからさわり方の差異に意識がいきにくいのだろうと思います。それは便利な反面、触覚による驚きはなくなります。その分面白さも減るのでしょう。
光島さんからの質問、
今村さんは、眼で見るときの心地よさはどんな感じですか。見ていて心地よいものがあれば教えてください。ぼくは、少し見えていたときに太陽の光がまぶしくてイヤだったという記憶しかないように思います。
そういえば、以前、手でさわった感触で美しさを感じるものはありますか?というような質問を光島さんにした覚えがあります。僕自身は、ビロードの布などを挙げたように思いますが、肝心の光島さんの答えを忘れてしまいました…。触覚では、心地よいものの方があげやすくて、美しいものは通常の言葉の用法からは外れますが、視覚はその逆のようです。視覚的心地よさを美しさと同じにしてしまってよいのか、どうなのか。
視覚的な心地よさというと、森や山など自然の緑は目に心地よい気がします。子どものころに本を読んだり勉強したりで目が疲れたら緑をみると目に良いと親から言われていたので、その思い込みもあるかもしれません。科学的に根拠があったのかは知りませんが…。他、動きでいえば、水面の雨の波紋や、木漏れ日の揺らぎなど、ランダムに現れたり、揺らいだりするものも心地よさのひとつとして思い浮かびます。あと、僕の場合でいえば、コントラストの弱い色使いに気持ちよさを感じているように思います。広告やプロダクトのデザインでもコントラストの強さで構成されたものより、弱さでコントロールされたものに魅力を感じることが多いです。昔、美大受験で鉛筆デッサンに励んでいたころ、いろいろな作例があるなかで、濃淡のコントラストがはっきりした迫力あるデッサンより、淡く繊細な階調で描かれたデッサンの方に惹かれたのを思い出しました。ただそれはかなり上級者のテクニックであって、今思えばそこに憧れたのはデッサンの得点を伸ばすことにおいては足を引っ張ったように思います。ただ、希薄な存在感を良いと感じる部分は、今の自分の作っているものにも繋がってはいて、その美意識は僕にとっては大事だったように思います。(あ、結局、美しさの話になってしまいました。)
話は変わって、実はこの返事は半月ほど前に一度ざっと書いていたので、ここから金木犀の話になります。その頃、金木犀の匂いが町中に漂っていました。今年は秋の過ごしやすい気温の時期が短くて、あっという間に寒くなってしまったので、もう金木犀も一瞬で散ってしまったようです。
僕の住んでいるマンションの駐車場の話なのですが、10台ほどの駐車スペースが横並びになっていて、それぞれ番号が地面に書いてあったようなのですが、剥げてしまってどこが何番なのか全然わかりません。僕のスペースはその真ん中寄りにあって、隣の車がある時はわかりやすいのですが、昼間など他の車が止まっていない時はどこかわからなくなります。実際、隣の車が間違えて僕のスペースに停めていたこともありました。僕の駐車スペースの真後ろに、フェンスを挟んで隣の敷地に大人の背丈より少し高いぐらいの金木犀の木がありました。丸く綺麗な形をしていて、消えてしまった数字の代わりにいつからその木を目印に停めるようになりました。バックで止める時も、金木犀目掛けて下がっていけるのでとてもわかりやすかったのです。秋には強い匂いを放ち、目を瞑ってもその匂いを頼りに停められるほどでした、というのは冗談ですが、車に乗るときや帰ってきた時に金木犀が出迎えてくれるのは気分が良いものでした。
それが去年、隣の土地が掘り返されて更地になり、金木犀も根元から消えてしまいました。
もう金木犀の木は無いのですが、つい駐車するときに木があった場所を確かめたうえで駐車しています。毎回、イメージの中に木が立ち現れ、それが無い現実空間にうっすらと重なりながら僕の知覚に作用しています。匂いのする木は不思議です。存在の仕方が、空気へと混じっていく。輪郭があいまいで、実体に触れられない、どこまで近づいても気配のような存在。金木犀は、僕には写真でみてもピンときません。触ってみても普通の木です。匂いに触れて初めて、「あ、金木犀だ」と見ているときよりも頭の中で鮮烈にイメージが結ばれます。
あったものがなくなること、匂いとしての存在、そういう在ることと無いことのあいだにあるような存在感に惹かれます。作品もそのようなものをモチーフにすることが多いです。さきほどの視覚的なコントラストの低さというのも、境界線の弱さ、曖昧さという点で、この興味と重なっているのだと思います。そういえば、生じた瞬間に消えていく、音という現象に惹かれるのも同じ理由かなと思います。
今村遼佑